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おことわり~人物名について。

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バイオグラフィー(3)

結婚、チャンス到来(1974~1977)

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ライスシャワーを浴びる2人。

1974年元旦、「紅白歌合戦」のあと「オールナイトフジ」に出演し、結婚のため慌しく渡米。

1月10日、ロサンゼルス郊外にある日蓮正宗の妙法寺で挙式。親族・関係者のみの質素な結婚式となった。

1月23日、赤坂プリンスホテルにて高島忠夫・寿美花代夫妻の媒酌のもと結婚披露宴が行われる。

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シングルと同じ髪型の雑誌記事写真。

3月25日、シングル「二時から四時の昼下り/雨ものがたり」が発売される。数多くの名曲を世に送り出している筒美京平だが、朱里エイコへの楽曲提供はこれが最初で最後である。
ジャケット写真では彼女にしては珍しくミディアムショートのカツラを着用している。

レコードでは相変わらず"切ない女心"や"惚れた腫れた"を歌っていた朱里はこの新曲に「またこんな曲なの?」と落胆したとかしないとか。しかし、歌謡曲マニアの間では「二時四時」の愛称でとても人気がある。

この頃、レイクタホのクラブでショーの演出をしていた母・みさをが持ち込んでいた娘のデモテープがクラブのマネージャーの耳に入り、熱心に出演契約を迫られる。日本での契約やスケジュールがあったため実現はしなかったが、この話を聞いた朱里はアメリカでの活動に俄然意欲を見せ、次の渡米のきっかけとなった。

7月25日、シングル「白い小鳩/愛の場所」が発売される。「白い小鳩」は都倉俊一が朱里に提供した数少ない楽曲のうちの一つである。わりと好調なセールスを見せていたようだが、朱里はアメリカに早く行きたいという一心だったようだ。


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出発当日の様子。夫婦で羽田にて。

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ニューオーリンズにて。看板にはEiko Shuriの文字が。

1975年2月12日、本格的渡米に際し、中野サンプラザでお別れコンサート「EIKO SHURI ON STAGE」を開催。演奏はNHKの子供向け音楽番組『ワンツー・どん』やアフリカでの活動で有名な石川晶とカウント・バッファローズ。セットリストにはおなじみのスタイルの構成の他、アルバム「パーティー」から7曲、蓄音機を脇に置いて歌った。

3月28日、渥美隆郎氏を伴って3度目となる長期渡米。

4月1日から5月31日まで、ニューオーリーンズのメテリーにあったレストランシアターのフキラウに出演。以降、ロサンゼルス、レイク・タホ、リノのクラブ等にも出演した。

4月25日、シングル「AH SO!/悲しみの鳥が飛び立つとき」を発売。3月の渡米前に、朱里エイコ自身の作詞とアイデアで作ったもの。彼女自身が津軽三味線を弾きながら歌うこの曲はアメリカで好評となり、ショーでは歌にあわせて「AH SO」と掛け声がかかったそうだ。

「AH SO!」はレア・グルーブとして現在も人気があり、オークションサイトでは白ラベルの見本盤シングルが高値をつけることもしばしば。

シングル「愛のめざめ/絶体絶命」

6月、ステージを見たTOWER OF POWERが彼女とのジョイント・レコーディングを企画。11月11日から15日まで、ロサンゼルスのワーナースタジオで「愛のめざめ/絶体絶命 (翌年3月25日発売)」がレコーディングされた。

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マイアミやプエルトリコのホテルのショーに出演している頃。

7月1日から4ヶ月間、プエルトリコのアメリカーナホテルでワンマンショーに出演。この間に、Dean Martinとの底抜けコンビで有名なJerry Lewisのショー番組「The Jerry Lewis Show」やJohnny Carsonがホストを務める「The Tonight Show」に出演した。

11月、ラスベガスのオーディションで、有力なマネージャーの目に留まり、その場で年末からNew Frontier Hotel(廃業)での2週間の公演が決まった。このショーは翌年2月5日から1ヶ月間再演され、再演中の2月14日に収録されたのがライブ盤「LAS VEGAS HERE I COME」である。


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フラミンゴ・ヒルトンで歌う。

1976年3月5日からFlamingo Hilton (1974年改名)でラウンジのショーに出演。
このショーを見たレイカルド・デュオというボードビル芸人からカーネギーホール出演の話を持ちかけられる。
レイカルド・デュオは、Rey RamirezとCarding CastroによるReycards Duet(The Reycards)というコンビ名で活躍したフィリピン出身の2人組。

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カーネギーホール、3800人収容の大ホールは超満員。アイ・ジョージに続き、日本人としては2人目の出演となった。

6月19日、ニューヨークにあるカーネギーホールの大ホールでレイカルド・デュオとのジョイントショーを開催。「I've Got the Music in Me」から「My Way」まで15曲を熱唱し喝采を浴びる。

現地の新聞等では"日本のバーブラ・ストライサンド"や"リトル・ライザ"と賞賛された。その一方「スワニー」を歌って黒人に詰め寄られたり、仕事にあぶれた白人ミュージシャンから妬まれ、悪質な投書を送られたり楽器を壊されるなど、色々と怖い目にも遭っている。

7月、ニューオーリンズのフキラウでアンコール公演を開催。現地ではジャズ・フェスティバルにも参加。8月、アリゾナのフェニックスやスコッツデールで活動。9月1日から25日までハワイでショーに出演した。

アルバム「NOW ON STAGE」

9月27日に帰国。10月13・14日、東京・芝の郵便貯金ホールで「朱里エイコ・ラスベガス・オン・ステージ」を開催。
カーネギーホール公演でもバックを務めた、Harvey Truittをリーダーとするバンドを同行し、以降3ヶ月35ヶ所を回った。このプロモートはキョードー東京で、外国人タレントとして来日という待遇だった。このツアーの大阪公演がライブ盤「NOW ON STAGE」として発売されている。

つづく

1976年12月31日、母・みさを、おばあちゃんこと藤田ハナさんの3人が正月休みでハワイ旅行へ。夫君の姿はなく、この辺りから離婚の噂が出始める。


1977年1月2日、アメリカでの仕事を求めて、朱里エイコのみが休暇も早々にハワイを発ちロサンゼルスへ。

4月頃、1年間のスケジュールが決まっていなかったため就労ビザが下りず帰国。当面は日本で活動することに。

シングル「めぐり逢い/陽はまた昇る」 ポール・アンカ「スーパー・ナウ/愛する歓び」

6月23日、松任谷由実作詞による新曲「めぐり逢い」を携え、全国縦断公演「朱里エイコ・オンステージ」を東京からスタート。

同じ頃、「Everything Is Super Now」の大ヒットによるツアーで来日していたPaul Ankaに直接売り込みに行く。彼女の「マイ・ウェイ」を絶賛したPaul Ankaから、オリジナルを含む4曲をプレゼントされることになった。

8月に渡米。9月1日付で岡田プロダクションに移籍。夫はオールスタッフ・プロダクションに残留。仕事上での別居に離婚の噂で持ちきりになる。

1976年12月31日に夫婦揃ってオールスタッフ・プロを離れたという報道もあるが誤報か。その後慰留になったのだろうか?

11月25日、シングル「ジョーのダイヤモンド/オクラホマ・モーニング」アルバム「ENDLESS」が発売される。Paul Ankaによるオリジナル書き下ろし、彼自身が歌ったものや作詞・作曲に携わったもので構成され、まさにPaul Ankaづくしになっている。

「歌う雑誌 KODAMA」で初めて彼女の声が世に出た曲がPaul Ankaの「CINDERELLA(シンデレラ)」なので、思い入れも一入だったのではないだろうか。

離婚、移籍(1978~1981)

1978年2月14日、「ジョーのダイヤモンド」のタイトルにちなんで「ダイヤモンドコンサート」を虎ノ門の日消ホールで開催。

5月28日、第7回東京音楽祭国内大会に参加。「ジョーのダイヤモンド」がゴールデン・スター賞を受賞。Paul Ankaは作曲賞を受賞した。

東京音楽祭は、レコードの売り上げよりも楽曲自体や歌唱力を評価するのが特徴。ヤマハ主催の「世界歌謡祭」と並び、日本で開催される二大国際音楽祭であった。

映画『キタキツネ物語』ポスター

7月15日、映画『キタキツネ物語』が公開される。劇中で3曲歌ったほか、モノローグも担当した。サウンドトラックはゴダイゴのタケカワユキヒデの作曲にミッキー吉野の編曲。権利の問題で朱里エイコ版のサウンドトラックは2009年まで発売されなかった。

8月、夫婦で住んでいた大田区馬込のマンションを出る。私生活でも別居することに。

9月13日から10日間、母・みさをと共に渡米。Paul Ankaのアレンジャーとして、またFrank Sinatra、Olivia Newton-Johnを手がけた大プロデューサーとして有名なDon CostaとLP制作の打ち合わせをする。

9月末に帰国後離婚の話し合い、10月初めに結論が出たということだ。

二人で事務所を開こうとしていた矢先の離婚に、アメリカのユニオンに入っていなかったため、強力なツテがなく手腕が発揮できなかった夫に幻滅したとか、アメリカでスターにしたいという夢に固執する母親の介入があったなど、諸々飛び交った。当人達の発展的解消という風なコメントに対し、マスコミは夫・隆郎氏に同情的な書き方をする物が多く、中には朱里エイコに諫言するものまである。

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ハリウッドグループIVにてレコーディング(中央がDon Costa)

10月15日、LP収録のために渡米。

12月21日、Paul AnkaとDon Costaの共同プロデュースによるアルバム「NICE TO BE SINGING」が発売される。ワーナー本社より全米で発売され、10月に先行して発売された「SAMURAI NIPPON」も収録。なかでも「Ready Or Not」がHelen ReddyやJohnny Mathis & Denice Williamsなどとのレーベルを越えた競作など、話題の多かったアルバムである。


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4人のダンサーと共に

1979年2月3日、中野サンプラザでリサイタル「朱里エイコ1979」を開催。シングル「サムライ・ニッポン」やアルバム「NICE TO BE SINGING」のプロモートのためハリウッドでオーディションした4人のダンサーを引き連れての公演だった。3月に東京・日劇と大阪・サンケイホール、5月には仙台で上演している。

シングル「愛は旅びと/Everytime 愛」

10月10日、シングル「愛は旅びと/Everytime 愛」が発売される。「愛は旅びと」は、作詞がアルバム「パーティー」に携わった八坂裕子、作曲は映画音楽で有名なHenry Mancini。「Everytime 愛」は朱里エイコ自身が作詞作曲に挑戦した。これはワーナー・パイオニアから発売された最後のシングルとなった。


1980年、RCAレコードに移籍。いつ頃からかは判らないが、この頃から1981年10月までトーマスという事務所に所属していたようだ。

レコード会社の移籍についての記者会見は開かれなかった。「なぜ記者会見をしてくれないの?話題にならないの?」と忘れられる不安や焦りがあったようだ。

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新春コンサートの様子

1981年1月8日、移籍後初のコンサート「EIKO SHURI '81 JUMP UP CONCERT」を東京・芝の郵便貯金ホールで開催。

1981年2月8日、TBSで『音楽の旅はるか―シカゴでジャズを』という、ジャズのルーツをシカゴに求める番組に出演。コンチネンタル・プラザホテルでのショーの様子が放送された。

シングル「知らせないで/Don't Be Afraid」

1981年5月、RCA移籍後初のシングル「知らせないで/Don't Be Afraid」が発売される。ワーナー・パイオニアへの移籍の時と同じく、10年ぶりに片桐和子が再び歌詞を担当した。

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