週刊平凡 1977年1月20日号より
カーネギー・ホール公演から活動を共にしているバンド。おそらく右端がHarvey Truitt。
――MUSICIANS――
<HARVEY TRUITT BAND>
――スタッフ――
カーネギー・ホールの前で。
長期渡米をしていた朱里エイコは、1976年の始め頃には6月に帰国し、ラスベガスでのラウンジ・ショーを再現したものを母・朱里みさをのプロデュースで上演したいと考えていた。
ところが、3月頃にフラミンゴ・ヒルトンで彼女のショーを見たレイカルド・デュオというボードビリアンから出演話を持ちかけられ、6月19日にはカーネギー・ホールという世界の檜舞台で歌うという好機に恵まれ、帰国は延期となった。
その後9月末に帰国。凱旋公演とも言えるコンサートツアーが10月13日の東京から始まり、ツアー中の大阪公演の模様を録音したものがこのライブ盤である。
前述のことから日本人でありながら、キョードー東京が招く外国人タレントと同等の待遇でツアーが敢行されたとのことだ。
コンサート内容は、ラスベガスで上演していたショーをベースに、おなじみのレパートリーや最新のヒット曲やミュージカル・ナンバーを取り入れ、充実したプログラムとなっている。また、バックのミュージシャンには、カーネギー・ホールで共演したレイカルド・デュオのバックを務めていたHarvey Truittを筆頭にドラム、ベース、コーラスのメンバーをアメリカから招いた。
サクラメントにあるユダヤ教のコミュニティのサイトにはベーシストとして参加したAlan Ginterの紹介ページがあり、朱里エイコとの音楽活動やこのアルバムについて書かれている。
プログラムを所持していないので詳しいことは判らないが、このコンサートの構成・振付は朱里みさを、音楽監督は東海林修と想像する。
開幕、男性司会が歌手を紹介するようなスタイルで舞台が始まる。この声はHarvey Truittのものだろう。カーネギー・ホールでのリサイタルでも同様にオープニングを飾った曲である。
イントロかぶせられるギュイーンというピッチベンド?ポルタメント?のシンセサイザー音が高揚感を誘う。また、曲間のスピーディーな挨拶が、いかにも外国のショーといった雰囲気だ。
Captain & Tennilleのセカンド・アルバム「Song of Joy」からのシングルカットで、1976年1月に発売されたシングルである。大ヒット曲「The Way I Want To Touch You」(再発売盤)に続いて、Billboard Hot100で3位、イージーリスニング部門で1位という安定した人気を示した。
オリジナルは、1975年にNeil SedakaがRocket Recordsから出したアルバム「The Hungry Years」に収録されていた曲。同じ年に2曲を差し替えたアルバムが「Overnight Success」というタイトルでポリドールから発売されている。
ピアノとブラスセクションで始まる割と平坦な感じのニール・セダカ版と比べ、Captain & Tennilleのバージョンは物語的な作りになっており、冒頭の虫の鳴き声から急にボリュームアップするイントロや、部分的にエコーするボーカルが印象的なアダルト・コンテンポラリになっている。
渡米以来レパートリーとしてきたこの曲は、翌1976年3月に発売されるシングルのB面に朱里エイコ自身の訳詞で収録されることになった。
若干ボリュームが小さめなのが残念だが、女性2人による粒揃いで軽快なコーラス・ワークが心地よい。日本ではこのツアーで初お披露目となったのだろうか?
名コンビであるエルトン・ジョンとバーニー・トーピン(左)
1976年6月に発売されたElton JohnとKiki Deeのデュエットによる軽快でハッピーなポップスである。
UKシングルチャート、Billboard Hot100の両方で1位、1976年の年間チャートではPaul McCartney & Wingsの「Silly Love Songs(邦題:心のラヴ・ソング)」に次いで2位を獲得するという世界的大ヒットとなった。1993年にドラァグ・クイーンのル・ポールとの新録音も話題になった。
Ann OrsonとCarte Blancheの共作となっているが、これはそれぞれElton JohnとBernie Taupinの変名(pseudonyms)による作品である。1981年には作者の二人がアイヴァー・ノヴェロ賞でBest Song Musically & Lyrically(賞名の日本語訳は不明)賞を受賞した。
ちなみに、Dionne Warwickが歌うボサノバ調の「Don't Go Breaking My Heart」(1965年)は、バート・バカラックによる同名異曲である。
このデュエット曲ではHarvey TruittがElton Johnのパートを務める。少し線が細い気もするが、彼のリズミカルで高い声は聴いていて気持ちがよい。
朱里エイコが"ハービー・トゥルイットお兄ちゃま"と呼んでいるHarvey Truittは、カーネギー・ホールのリサイタル以来バックバンドのリーダーを務めているミュージシャン。彼は翌年のシングル「明日への願い」、その次のシングルB面「陽はまた昇る」でオリジナル楽曲を提供している。ワーナー・パイオニア後期の活動を知る上で、ポール・アンカと並んで外せない一人である。
握手タイムで客席降り。歌いながら客席を走り回っているようだ。そのうちの何人かにはマイクを向けて、サビの部分をハミングで歌わせている。
相変わらず照れ屋が多い。「お上手ですね!」っていうパターンはなかったのだろうか。
ウェストバージニア州にあるジョン・ヘンリー像
作者不詳のアメリカの民謡である。1950~60年代のフォーク・リバイバルで改めて脚光を浴びたというものが多い中、この曲は年代をを問わずコンスタントに歌い継がれてきたようだ。
記録に残っている最初の録音はHenry Thomas(1927年)となっている。色々なバージョンのものがあり、おおむねカントリー調とブルース調に分けられる。朱里エイコが歌っているバージョンは更にソウル的なアレンジが加えられているが、最も近い形は1954年にHarry Belafonteが歌ったもの。
大柄で力持ちだった黒人労働者のジョン・ヘンリーは、機械に取って代わられて職を失ってしまう仲間のために人間の力を証明しようと蒸気ドリルと勝負し、勝利するがこれが原因で死んでしまう、というストーリー。
一貫して生産と効率のみを重視する資本主義思想にあっては、無益や無駄死にへの教訓的な意味合いが強い一方、労働者階級にとっては英雄でありシンボルであり続けた。今の全世界総デジタル化の流れの中で、とりわけアナログ的なものを求めるといった構図に似ているかもしれない。
1973年に、パラマウント映画がこの物語を元にした11分のアニメーションを制作、Roberta Flackが声優にチャレンジしたことでも話題になった。翌年の第46回アカデミー賞では短編アニメ映画賞にノミネートされている。
2000年にはディズニーでも伝記映画として、この物語を取り上げている。
いつからのレパートリーかはわからないが、1973年の労音主催のリサイタルでは既にプログラムにリストアップされており、録音された音源はこれが初出となっている。
フォッシーの振り付けが始まりそうなパワフルなソウル・アレンジのイントロとアウトロが特徴。
「ジョン・ヘンリー」と並んで、この渡米以前のコンサートではお馴染みだったいずみたくによる和製ミュージカルのナンバーである。セカンドアルバムでは歌われていない、シャンソンの語りのような冒頭のモノローグを聴くことができる完全版である。
このバージョンは途中からボレロ調に変化し、エンディングに向かって盛り上がってゆくアレンジになっている。
1974年8月、LaBelleのファースト・アルバム「Nightbirds」に先行して発売されたファースト・シングル曲で、Billboard Hot100とカナダのシングルチャートで1位を獲得した大ヒット曲である。2003年にはグラミー賞の殿堂入りを果たした。
LaBelleは、Patti LaBelleを中心に結成された3人組の女性コーラス・グループで、グラムロックの影響を受けた奇抜な衣装で人気を博した。この作品のほか「Nightbirds」「Phoenix」が代表曲となっている。
オリジナルは、スタジオ・ミュージシャンのグループThe Eleventh Hourが1974年に発表したアルバム「The Eleventh Hour's Greatest Hits」に収録されたもの。全く売れなかったこの曲は、Allen Toussaintのプロデュースでファンク的なアレンジとなり、LaBelleが歌って大ヒット曲となった。
イギリスの女性グループであるAll Saintsをはじめ数多くのアーティストがカバーしている作品だが、2001年には映画『Moulin Rouge!』の主題歌としてChristina Aguilera、Lil' Kim、Mýa、P!NKという4人のコラボレーションによって歌われたものが特に有名。
3度目の長期渡米に際して、朱里エイコはニューオーリンズを振り出しに音楽活動を始めているが、そのニューオーリンズでこの曲を覚えたということだ。ブラスセクションとベースが格好いいアレンジになっている。
お得意のDuck Walk
ギタリストのChuck Berryが1957年にリリースした大ヒット曲、Billboard Hot100とR&Bチャートでトップ10入りを果たした。数多くの歌手にカバーされているが、その中でも60年代にはThe Beatles、70年代ではBeach Boysがカバーしたものがよく知られている。
Chuck Berryは、独特のギターのリフとしゃがみながら演奏するダックウォークが有名。ロックンロールを創り出した偉大なアーティストの一人とされており、1986年にロックの殿堂が創設された際、殿堂入り1号となった10人のうちの1人である。代表曲には1955年のデビュー曲「Maybellene」のほか、「School Days」「Sweet Little Sixteen」(1957年)、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で使用された「Johnny B. Goode」(1958年)などがある。
1965年の第16回紅白歌合戦ではザ・ピーナッツがこの曲で出場。映像が残されており、ツイストを踊りながら歌う姿が見られる。
江利チエミのSP盤
元は1954年3月に発売されたSonny Dae & His Knightsというグループによる楽曲で、現在で言うところのロックというより、ジャズの性格を色濃く残した作品である。
オリジナル発売の2ヵ月後の1954年5月、Bill Haley & His Cometsがカバー。映画『暴力教室』(1955年)のオープニングに使用されたことで、レコード販売累計2500万枚という空前の大ヒットを記録。このヒットをきっかけにロックンロールが若者の間で大ブームとなった。
翌1956年には同名のミュージカル映画が製作され、Bill Haley & His CometsやThe Plattersが出演しているほか、人気ラジオDJだったAlan Freedが本人役で出演している。
日本では1955年11月に江利チエミとダーク・ダックスが競作、これらは日本で初めてのロックンロールと言われている。
また、1973年公開のジョージ・ルーカスの大ヒット映画『American Graffiti』の挿入曲として使用されたことで再注目されている。
黒人の若者の間で発生したブルースやジャズのフュージョンである音楽は、この曲のヒット以降白人の聴衆に受け入れられていった。白人ミュージシャンによる、カントリーやウェスタンの要素が強いものはロカビリーといわれるが、明確な区別があるわけではない。ちなみに、ロックンロールという言葉は1953年にAlan Freedによって作られた言葉である。
日本盤シングルでは、A面とB面の収録が逆になっている。
1966年8月に発売されたThe Beatlesのアルバム「Revolver」に収録された曲である。発表当初はシングルカットされなかったものの、解散後の1976年7月に発売されたコンピレーション・アルバム「Rock 'n' Roll Music」に先行してシングルが発売された。このシングルはBillboard Hot100で7位というヒットを記録している。
この作品は、Paul McCartneyがモータウン・サウンドやブラス・ロックに影響されて作られたものと言われている。また、ブラス・ロック・バンドのChicagoの創立メンバーであるRobert Lammは、この曲に影響を受けてバンドのコンセプトが決めたと語っている。
全編にブラスの和音が散りばめられている一方、弦楽器はベースのみで、途中に装飾的に登場するギター以外ギターパートが存在しない珍しいスコアになっている。アルバム「Revolver」では、この素朴でシンプルな楽曲が、次のトラック「Tomorrow Never Knows」(John Lennonがチベット仏教からヒントを得て作ったサイケデリックな作品)の異様さを際立たせている。
後に、ポール自身はマリファナの影響下での体験を元にして書かれた曲と告白しているが、そう言われれば確かにそれを匂わせる歌詞となっている。
Beatlesのアルバム発売と同じ月にCliff Bennett & the Rebel Rousersがカバー、イギリスのシングル・チャートで6位というヒットとなっている。このほか、Blood, Sweat & Tears(1975年)やEarth, Wind & Fire(1978年)のカバーも有名。
オリジナルはLittle Willie Littlefieldが歌った「K.C. Loving」(1952年)というタイトルの曲である。
1959年にWilbert Harrisonが「Kansas City」としてカバーし、Billboard Hot100ならびにR&B部門で1位という大ヒット曲になった。この曲がヒットするいなや、Hank Ballardをはじめとする数多くの歌手がカバー、オリジナルのLittlefield版も再発売されている。中には「Goin' to Kansas City」(Witherspoon Mulligan Websterのカバー)というタイトルのカバーもある。
ちなみに、Wilbert Harrisonの「Kansas City」は、アメリカのシングル・チャートで1位を獲得した最後のSP盤とのことである。
1962年、Little Richardの復帰コンサートでBeatlesは前座を務めた。
同じく1959年、Little Richardはアップテンポなアレンジを施し、自身のオリジナル曲「Hey Hey Hey Hey」(1958年)とメドレーにしてカバーした。どちらかというとカントリー的なものから、ポップな雰囲気へと曲のイメージをガラっと変えている。
The Beatlesは、キャリア初期のハンブルグ時代からこのLittle Richardのバージョンをレパートリーにしており、1964年12月発売の「Beatles for Sale」(アメリカでは「Beatles VI」のタイトルで1965年6月の発売)で初めて収録した。
朱里エイコもこのメドレー・バージョンで歌っている。
ミュージックシートの表紙にはLittle RichardとPat Booneのスチール。
アメリカとイギリス以外で先行発売されたビートルズのシングル。
1956年3月に発売されたLittle Richard & His Band名義のシングルで、BillboardのR&B部門において8週に亘り1位の座を守ったヒット曲である。
作者としてクレジットされているRichard Pennimanとは、Little Richardのこと。元々は「The Things」というタイトルだったことから、「Long Tall Sally(The Things)」と表記される場合もある。
この前作のシングル「Tutti Frutti」は黒人系ラジオ局から火がついて人気が出たものの、白人系のラジオ局では一切取り上げられず、代わりにPat Booneのカバーばかりが放送されていたため、ヒットチャートではPat Booneの後塵を拝することになった。黒人差別が依然として強かった時代のことである。こうした事情から、白人が真似できないようなリズムやフィーリングの歌を、ということで作られたのが本作である(結局Pat Booneのカバーがトップ10入りのヒットとなっているが)。
ミュージカル『Dreamgirls』の中には、このエピソードをモチーフにした印象的なシーンがある。
日本でも白人で優等生的な歌唱のPat Booneのカバーに人気が集まり、当初、Little Richardのオリジナルや不良的といわれたElvis Presleyのカバーはあまり注目されなかったようだ。
1964年6月にはビートルズがカバー・シングルを発売し、リバイバルとなった。
また、ザ・タイガースのベーシストだった長身の岸部一徳(旧芸名・岸部修三(おさみ))に付けられた「サリー」というニックネームの由来となった曲としても有名である。
1975年5月に発売されたCaptain & Tennilleのファースト・アルバムかつ大ヒット作「Love Will Keep Us Together」のラストを飾った作品で、ドラマティックなバラードである。
作者のBruce Johnsonは、Daryl DragonやToni Tennilleと同様にBeach Boysの活動に参加していたアーティストで、1977年には自身のアルバム「Going Public」でこの作品をカバーしている。
同じ1975年の10月、Barry Manilowがアルバム「Tryin' to Get the Feeling」でカバー。アルバム発売の翌月にはシングルカットされ、Billboard Hot100で1位という大ヒットを記録した。
数多くの歌手がこの作品を歌っているが、Barry Manilowバージョンの他には若手アイドルだったDavid Cassidyのバージョンもヒットしている。また、Frank Sinatra、Sammy Davis, Jr.、Ray Conniff、Tom JonesやDinah Shoreなどの各ジャンルの錚々たる歌手がカバーしたことでも知られている。
Barry Manilowは、歌手のほかにも作曲家・プロデューサーとしても活躍しているアーティストで、「Mandy(邦題:哀しみのマンディ、オリジナルタイトル:Brandy)」や「Copacabana(At The Copa)」のほか、「Could It Be Magic(邦題:恋はマジック)」などのヒット曲がある。ヒット曲「Copacabana」をテーマにしたTVミュージカル(1985年)も有名。その後1990年にはステージ・ショーとして、1994年にはイギリスで本格的ミュージカルとして舞台化された。日本では2006年に宝塚歌劇団によって上演されている。
1975年7月にブロードウェイで初演されたミュージカル『A Chorus Line(邦題:コーラス・ライン)』の中で一番知名度が高いナンバー。エンディング近くとフィナーレのリプライズで使用される曲である。この曲に合わせて踊られる、金色のタキシードにシルクハットのラインダンスは、作品の中でも目玉のシーンである。日本では劇団四季の定番演目となっているほか、ビールのCMでお馴染みだろう。
ブロードウェイ初演のポスター
ミュージカル『コーラス・ライン』とは、コーラスという脇役に賭けるダンサーたちのオーディションの様子を描いたもの。この作品は、ダンサーであるMichon PeacockとTony Stevensが仲間のダンサー達を集めMichael Bennettをオブザーバーとして開いたワークショップで、参加者にさせた苦労話や身の上話をまとめ、これを原案としてJames KirkwoodとNicholas Danteが脚本化した。1976年のトニー賞では最優秀ミュージカル賞を受賞し、初演からクローズまで15年という当時としては最長のロングランを記録している。
Michael Bennettはブロードウェイで活躍した振付家・演出家で、トニー賞で最優秀演出賞と振付賞を合わせて7回も賞を受賞した人物である。『コーラス・ライン』の他に『Promises, Promises』『Follies』『Company』『Dreamgirls』が代表作である。
1985年には、ストーリーやミュージカル・ナンバーを一部改変し、マイケル・ダグラスを主演に映画化された。
2006年にリバイバル上演され、2008年にはリバイバルのオーディションを追ったドキュメンタリー映画『ブロードウェイ♪ブロードウェイ~コーラスラインにかける夢~』が公開された。審査員を泣かせてしまうほど真に迫った演技を見せた、ポール役のJason Tamのオーディション風景が名シーンである。
キャシー役のDonna McKechnieはトニー賞でミュージカル主演女優賞を受賞した。
ミュージカル『コーラス・ライン』の中盤のナンバーである。
ハリウッドに進出して夢敗れ、ダンサーとしてやり直すためにブロードウェイに舞い戻ったキャシーが、踊るチャンスが欲しい、仕事が欲しい、という切実な気持ちを歌ったもの。キャシー役が長丁場を歌い踊るハードなシーンのため、演じられた後は拍手喝采でショーストップする名シーンでもある。
ダンサーにとって欠かせない音楽と稽古場の鏡をテーマにして歌われたこの曲は、作品の核心をつくパートのひとつであるが、映画ではオリジナルの新曲「Let Me Dance For You」に差し替えられた。
MCでも語られている通り、ラスベガスという厳しい世界でオーディションによって仕事を勝ち取ってきた朱里エイコにとって特に思い入れのあるナンバーであるようだ。
ミュージカル『コーラス・ライン』のフィナーレ前、ディアナ役をメインに歌われるバラード・ナンバーである。
舞台に人生を賭けるダンサー達に、「ダンスを辞めなければいけなくなったら?」という演出家の問いかけに対する、ダンサー達の「ダンスを愛した日々に悔いはない」という答えを歌ったもの。怪我をして病院に運ばれていく仲間の姿を目の当たりにした若いダンサーたちに投げかけられるこの問いは、現実を知っている演出家のある意味「愛」ともとれる。
ダンサーの舞台への情熱という作品の中核をなすこの曲は、映画版ではザックとキャシーを前面に出したラブソングとして演出されている。
また、数多くの歌手にカバーされている作品でもあり、Johnny Mathisは1975年11月発売のシングル「Stardust」(Billboardのアダルト・コンテンポラリ部門で4位)のB面にこの曲を収録している。その他、Aretha Franklin、Shirley Basseyのカバーが知られている。邦題は「愛した日々に悔いはない」。
1971年3月に発売されたJackson 5のシングル曲で、Billboard Hot100で2位、ソウル部門で1位に輝いた大ヒット曲である。元々はThe Supremesのために書かれた作品だった。
「I want you back(邦題:帰ってほしいの)」「ABC」「The love you save(邦題:小さな経験)」「I'll Be There」「Mama's Pearl(邦題:ママの真珠)」「Dancing Machine」などの大ヒット曲と並んでJackson 5の代表曲となっている。
Jackson 5はMichael Jacksonがリード・ボーカルを務めた兄弟グループ。黒人アイドル・グループとしては、白人に初めて受け入れられたグループだと言われている。
同じ年にIsaac HayesやGrant Green(インストゥルメンタル)やAndy Williamsらがカバーしている他、当のThe Supremesもアルバムでこの曲を歌っている。
1974年にはGloria Gaynorがディスコ・アレンジでカバーしてヒットさせている。Gloria Gaynorは「I Will Survive(邦題:恋のサバイバル)」などのヒット曲を持ち、ディスコブームを代表するディーヴァとして有名。1990年代中頃からのリバイバルや、2002年発売のアルバムからシングルカットされた「I Never Knew」「Just Keep Thinking About You」がビルボードのディスコチャートで1位を獲得するなど、息の長い活躍を見せている。
定番のフィナーレ曲は、これからの歌手としての決意を込めた挨拶から始まる。感極まっている様子がひしひしと伝わってくる、感動のフィナーレだ。
→アルバム「朱里エイコ・オン・ステージ」 (Disc2/SideB/M7)