下の付録ポスターの別カット (週刊明星 1972年7月9日号)
翌々月である11月に発売されたライブ盤「朱里エイコ・オン・ステージ」の宣伝チラシ。
ジャケット3面分になる付録ポスター
ファースト・アルバムである前作「これから始まるなにか」から半年も経たずに発売されたセカンドアルバムで、「北国行きで」に続くヒットシングル「恋の衝撃」をフィーチャーしたものである。シングル「恋の衝撃/あたたかい胸」と同時に発売された。
A面の楽曲すべてがいずみたくの作曲、川口真のアレンジとなっている。いずみたくは朱里エイコにとっては学生時代からの師匠で、所属事務所であるオールスタッフ・プロダクションの代表取締役でもあった。
シングル曲である「恋の衝撃」や「あたたかい胸」のほか、「太陽の女」が明るくて軽いサウンドなのに対して、残り半分はヘビーな劇画タッチの楽曲というバランス配分となっている。それらを交互にレイアウトしているのも特徴的である。
B面のカバーは壮大な名曲からアコースティックなものや人気ポップスと、バラエティ豊かな選曲となっている。
前作「これから始まるなにか」に収録された洋楽カバーが全英語詞だったのに対し、本作の洋楽カバーは全て日本語の訳詞がつけられている。わざわざ英語の得意な彼女に日本語詩の洋楽を歌わせたのは、「北国行きで」の大ヒットで人気急上昇中、紅白を視野に入れて老若男女を狙った配慮か、単なるレコード会社の方針か。ともかく訳詞分の費用がかかっているのは確かである。
このアルバムは、ジャケット、ライナーともに製作に関わったスタッフのクレジット記載がなく、作詞・作曲・編曲のみの記載となっている。また、特典として三つ折の大型ポスター(右写真)が封入された。
ドラマチックなミュージカルの劇中曲「今、今、今」は、イントロが省かれたアレンジになっている。モノローグから始まるフルバージョンは後に発売されるライブ盤に収録された。
この曲はいずみたく門下のコーラス・グループであるザ・シャデラックスが「今,今,今 NOW IS THE TIME」というタイトルでシングルを出している。また、フランク永井(琵琶湖周航の歌)、岸洋子(今今今~岸洋子の魅力)、由紀さおり(この愛を永遠に)、尾崎紀世彦(また逢う日まで~尾崎紀世彦セカンドアルバム)などの有名どころがアルバムでカバーした。
左から佐良直美、ピンキー(今陽子)、松橋登
劇団四季とオールスタッフ・プロダクションの合同制作、ロックイン・ミュージカル『さよならTYO(トーキョー)!』のフィナーレで使われたものがオリジナルである。ミュージカルのナンバーとレコードで歌われているものでは歌詞が異なる。
『さよならTYO!』は、第2次関東大震災で地下街に閉じ込められた若者の人間模様を描いた国産ミュージカル(脚本:阪田寛夫、作詞:阪田寛夫・岩谷時子・藤田敏雄、音楽:いずみたく、演出:浅利慶太、振付:山田卓)で、松橋登、佐良直美、ピンキーとキラーズらが出演した。
また、ミュージカル『俺たちは天使じゃない』(脚本:矢代静一、歌詞・演出:藤田敏雄、音楽:いずみたく)でも使用された。この作品はAlbert Hussonの『La Cuisine Des Anges (天使の饗宴)』という戯曲を元にしたもの。1955年にはハンフリー・ボガード、1989年にはロバート・デ・ニーロの主演で映画化されている。
佐良直美のアルバム「十二人の女」(1969年)に収録された曲で、マンドリンを使った南欧風の曲が思い出されるような雰囲気の作品である。
「十二人の女」は作詩・岩谷時子、作曲・いずみたくによる企画盤。「丸の内の女」などの具体的なご当地ものから、「芝居をする女」など抽象的なものまで幅広い女性像を描いた。中でも、ベトナム戦争の悲惨さを訴えた「戦場の女」は必聴である。ジャケットデザインは和田誠(夫人が平野レミ)が担当した。
「十二人の女」といえば、関係があるのかないのかは判らないが、淡谷のり子が1971年に発売した「昔一人の歌い手がいた―いずみ・たくと12人の作詞家による」(作詞:藤田敏雄ほか、作曲:いずみたく、この作品も和田誠によるイラスト)なんていう作品や、時代劇『水戸黄門』の初代・渥美格之進役で有名な横内正の「横内正をめぐる十二人の女」(作詞:なかにし礼、作曲:いずみたく、編曲:横内章次(横内正の兄))なんてのもある。
12というと、たいていA面B面で12曲、12個は1ダース、とキリが良いというところからの企画か……どうかは知る由もない。
ピンキー(今陽子)のシングル「夜が終る時/グッド・バイ」から。
1972年、今陽子はピンキーとキラーズからソロに転向し、『みゅーじかる死神』に出演。『さよならTYO!』に続くミュージカル出演2作目であった。
このシングルは、ミュージカルのナンバーから2曲をサウンドトラックとは別に再録音して発売されたものである。
B面の「グッド・バイ」は「脱出」というナンバーを改題したもので、シリアスなバラードのA面に対してノリノリのグルーヴィーな曲になっており、和物DJが頻繁にプレイする人気曲である。
左から笈田敏夫、ピンキー(今陽子)、西村晃、楠トシエ
『みゅーじかる死神』は古典落語の「死神」を原案として書かれた労音ミュージカル。
脚本:今村昌平、演出:藤田敏雄、音楽:いずみたく。出演は西村晃、ピンキー(今陽子)、楠トシエ、笈田敏夫、園田裕久ほか。1982年の再演では死神役を夏木マリが務めている。
今陽子はいずみたくに見出された歌手の一人で、朱里エイコと同じくオールスタッフ・プロダクションに所属していた。ピンキーとキラーズ時代に爆発的な売り上げがあった「恋の季節」ほか「涙の季節」が有名。
オリジナルはデューク・エイセスが歌ったもので、アルバム「にほんのうた 第3集」に収録された鳥取砂丘を歌った作品である。
「にほんのうた」は永六輔・いずみたくによるシリーズもので、1966年~1969年にかけて4集まで発表された。日本各地を二人が旅をして風情を織り込んだオリジナルのご当地ソング集で、第8回日本レコード大賞の企画賞(1966年)および特別賞(1969年)を受賞している。デューク・エイセスもスケジュールの合間を縫って旅に同行したという。
「にほんのうた 第1集」からは、群馬の温泉を歌ったザ・ドリフターズのヒット曲「いい湯だな」や、デューク・エイセスや由紀さおりで有名な京都を歌った「女ひとり」などのヒット曲が生まれた。また、第2集で沖縄を歌った「ここはどこだ」や、第4集で広島を歌った「伝説の町」という戦争に対する思いを綴った名曲の存在も忘れてはいけない。
Marlon Brando主演の映画『The Godfather』(1972年)のために作曲された曲。インストゥルメンタル版は「ゴッドファーザー 愛のテーマ」、歌詞をつけたボーカル版は「Speak Softly Love」と呼ばれる。アンディ・ウィリアムスによって歌われたこのボーカル版は、各国で様々なアーティストにカバーされ、日本では尾崎紀世彦がカバーした。尾崎はこの曲で2度目の紅白歌合戦(第23回)に出場している。
Eduardo De Filippo作のコメディ映画『Fortunella』からの盗作疑惑持ち上がり、作曲のNino Rotaはアカデミー作曲賞から下ろされたという経緯があるが、そもそもどちらもNino Rotaの作品である。
→Nino Rota「Fortunellaのテーマ曲(1958)」ちなみにコッドファーザーシリーズ2作目の主題歌は「Love Said Goodbye」というタイトルで、Andy Williamsが再び歌った。これは「C'est Mieux Comme Ça」(Herve Vilard)のカバーである。また、3作目の主題歌は「Promise Me You'll Remember」(Harry Connick Jr.)となっている。
中島潤が訳詞した日本語詞による「マイ・ウェイ」で、布施明や加山雄三や水原弘らがカバーしたことでよく知られている。
布施明は1972年の第23回紅白歌合戦にこの曲で出場した。ちなみに布施明のシングルのクレジットでは訳詞が中島淳となっている。
作られた当初は「For Me」という英語詞の曲で、Herve Vilardという歌手が歌うことに決まったが、作曲のJacques Revauxが満足せずお蔵入りになってしまったようだ。その後、これを歌うことに決まったClaude Françoisの希望で内容に修正が入り「Comme d'habitude」というタイトルで1968年にフランス語でリリースされた。
Claude Françoisの歌声をTVで聴いて気に入ったポール・アンカは、すぐさま権利を手に入れ、自身で英語訳してフランク・シナトラに楽曲提供した。これが、全世界で有名になった「My Way」(1969年)である。
なお、ポール・アンカが書いた詞の内容は、原曲の内容とかけ離れたものになっている。そのポール・アンカによる英語版は、"人生の終わりを悟った男の歌"という内容なのに対し、中島潤による日本語版は"人生の船出"を歌った正反対の内容となっている。
朱里エイコが全英語詞を歌ったものはアルバム「ENDLESS」に収録されている。歌唱に関しては後年発売になる「ENDLESS」やライブ盤のものが飛びぬけているので、本作のバージョンは多少見劣りがするかもしれない。コンサートではエンディングのリフレインをこの日本語詞で歌うことが多かったようだ。
→アルバム「朱里エイコ・オン・ステージ」 (Disc2/SideB/M7)
→アルバム「LAS VEGAS HERE I COME」 (SideB/M6)
ポール・サイモンの1972年のヒット曲で、有名白人ミュージシャンが初めてレゲエにアプローチした曲といわれている。1970年「明日に架ける橋」の大ヒット後、音楽性の違いからサイモン&ガーファンクルは解散。これがソロ転向第1弾のシングルになった。
イントロだけを聞くと、ちあきなおみの「喝采」を連想する。
「北国行きで」のヒットから失踪・結婚の時期まで、朱里エイコが各メディアに露出する際には、大抵"母"というキーワードを織り込んでアピールされた。それが顕著なのは週刊誌で、母・朱里みさをの過去の遍歴や、母子家庭であることがよく話題になり、"それでも健気に頑張っている歌手"といった記事が散見された。ちなみに、朱里みさをは高名な振付家だったが、同時に過度のステージ・ママとしても有名だった。
ファーストアルバムの「マミー・ブルー」、本作の「母と子の絆」、次作のサード・アルバムでは母が1曲作詞を担当しているのを見るにつけ、"母"のフィーチャーぶりが鼻につくのは深読みのし過ぎだろうか。ただの偶然であればいいのだが。
父親がロンドンに駐留するアメリカの軍人で、アメリカンスクールでの仲間だった3人は、故国にちなんで"America"という名前でバンドを結成。アコースティックな面と美しいコーラスワークが、しばしばロック・グループのCrosby, Stills, Nash & Youngと比べられるようだ。
1971年に発売されたデビュー・アルバム「America」はイギリスではさほど売れなかったが、アメリカ・ヨーロッパでのアルバム発売に際して追加曲が書かれた。その中のひとつがこの作品である。当初は「Desert Song」というタイトルで演奏されていたようだ。
曲を追加して発売された新バージョンのアルバムは大ヒットとなりミリオンセラーを達成。この「名前のない馬」は1972年の世界的ヒット曲として、1973年3月に開催された第15回グラミー賞で最優秀新人賞を受賞した。
当時、"Horse"という言葉はヘロインの隠語として使われており、ドラッグ・ソングとして誤った解釈がされることがあったようだ。しかし、本来の内容は全く異なったもので、自然を大切にしようという地球の環境問題を訴えかけたものである。
Carole Kingのセカンドアルバム「Tapestry」に収録された曲である。このアルバムの制作にギタリストとして参加していたJames Taylorが後にカバー、シングルが全米1位を獲得している。
Carole Kingといえば、夫だったGerry Goffinとの共同制作「The Loco-Motion」(Little Eva)、「Will You Love Me Tomorrow」(The Shirelles)が有名。自身が歌ったものではこの曲の他に「It's Too Late」が大ヒットしている。
1972年3月に開催された第14回グラミー賞では、最優秀レコード賞(It's Too Late)、最優秀アルバム賞(Tapestry)、最優秀楽曲賞(You've Got A Friend)、最優秀女性ポップ・ボーカル賞(Tapestry)と、4冠の栄誉に輝いている。
全く関係ないが、James Taylorといえば、アルバム「パーティー」に登場するヒロインの彼氏も大好きなアーティストである。
モーツァルトの交響曲第40番 第1楽章を編曲して歌詞をつけたものである。
モーツァルトの交響曲第40番とは、モーツァルト晩年(3年後の1791年に35歳の若さで亡くなった)の1788年に作曲された三大交響曲(第39番、第40番、第41番「ジュピター」)のうちのひとつである。
オリジナルを歌ったSylvie Vartanは日本でも人気があり、「La Plus Belle Pour Aller Danser(Du Film"Cherchez L'Idole")(邦題:アイドルを探せ)」や「レナウン・ワンサカ娘」などで60年代に一世を風靡した。
この頃のSylvie Vartanの顔が往時の少女的なものと異なってやけに大人びているのは、度重なる交通事故のために顔の整形手術を余儀なくされたためである。
2001年には映画『ウォーターボーイズ』で「Irresistiblement(邦題:あなたのとりこ)が使用されてリバイバル・ヒットしている。
ちなみに、ウルトラマン・シリーズに登場する敵役・バルタン星人の名前は、ヨーロッパの火薬庫といわれ紛争の絶えなかった「バルカン半島」に由来する。シルヴィ・ヴァルタンの姓とは何の関係もない。