付録のカレンダー (1973年1月~3月)
中古レコードに同梱されていた印刷色紙。発売キャンペーンなどで配布されたものだろうか?
カラフルな7インチLP(上)とプロモ盤(下)
「DELUXE4 恋の衝撃ほか」と同時に発売されたライブ盤で、12インチLP2枚組+7インチLP+グラビア写真を多用したブックレット、という豪華構成の3枚組のボックスになっている。
(Disc1) 京都"ベラミ"実況録音。いわゆる地方の営業を録音したもの。A面とB面は別日程のプログラム。当時のPR広告を見ると、このアルバムの音源収録のために催されたショーのようだ。
ベラミは京都市東山区にあった高級ナイトクラブ。多数小説化や映画化された「山口組三代目襲撃事件(1978年)」でも有名。
(Disc2) 東京"文京公会堂"実況録音。各地の労音の統一企画として開催されたもので、朱里エイコにとって初めての大規模なコンサートツアーとなった。
文京公会堂は『8時だョ!全員集合』(TBS)の生放送会場としてよく使われた会場。建物の老朽化などで1977年に閉場、現在は文京シビックホールになっている。
(付録) ボックスやスリーブの色と同じ青緑色の盤。11月の発売に合わせて朱里エイコから歌のクリスマス・プレゼントといったところだろうか。盤のラベルには非売品と印刷されている。
※同時発売の小柳ルミ子のアルバム「小柳ルミ子のすべて―忘れかけていた心の歌」もこのアルバムと同じボックス仕様。
付録の7インチLP(黄色盤、型番LZ-1)は、やはりクリスマス・メドレー(ホワイト・クリスマス/サンタが町にやってくる/聖夜)と邦楽(花/早春賦/荒城の月)のカップリングになっている。また、小柳ルミ子と朱里エイコのクリスマス・メドレーのみを両面に配したプロモ盤も存在する。
オリジナルのタイトルは「A Wonderful Day Like Today」。1964年イギリスで初演され、1965年にブロードウェイに進出したミュージカル『The Roar Of The Greasepaint - The Smell Of The Crowd』のナンバーのひとつである。
ミュージカルのナンバーからは、この曲以外にもNina Simoneの「Feeling Good」やTony Bennettの「Who Can I Turn To」、またSammy Davis, Jr.が歌った「The Joker」など、多数のヒット曲が生まれている。
Lena HorneやShirley BasseyからAndy Williamsといった有名歌手が男女問わずカバーしており、単体の曲としては「On A Wonderful Day Like Today」というタイトルで歌われていることが多い。
1967年盤と1969年盤
1962年にLonnie Doneganが歌ったものがオリジナルだが、この曲が世に知られるようになったのはTom Jonesが出したシングルのヒットによる。
Tom Jonesのカバーは1967年7月(アメリカでは8月)に発売された。イギリスのチャートでは2位の大ヒットとなったが、Billboard Hot 100で49位(アダルト・コンテンポラリでは28位)とアメリカではそれほど振るわなかった。その後1969年に再発売した際には、Billboard Hot 100で6位(アダルト・コンテンポラリでは1位)と、一躍国際的な大ヒット曲となった。
作者でオリジナル歌手であるLonnie Doneganとは、1950年代にイギリスで起こったスキッフルのリバイバル・ブームのきっかけとなった歌手で、このブームがリバプールから広がるブリティッシュ・ロックの下地を作ったと言われている。
バート・バカラックの曲にも同じタイトルの曲があり、字面だけだと混同しやすい。面白いことに本作中でどちらも歌っており、もう一方はB面のメドレーで聴くことができる。
1957年にClyde McPhatter(The Driftersに在籍していた黒人歌手、日本のザ・ドリフターズはここから名前を取った)が歌ったものがオリジナルで、正式名称は「Without Love(There Is Nothing)」である。ビルボードのR&B部門では9位、Hot100では19位という大ヒットとなった。
その後、Ray CharlesやElvis Presleyなど数多くの有名歌手にカバーされているが、中でも最もヒットしたカバーはTom Jonesが1969年に発売したシングルである。日本盤では「悲しき呼び声」という邦題がつけられた。
「Delilah」に続いて「Without Love」のリプライズでメドレーを締めくくる。
ミュージカル『ウエスト・サイド物語』の2幕で使われる有名なナンバーである。この作品には「Maria」「Tonight」のほか代表曲を挙げるとキリがない。
レナード・バーンスタインは、ミュージカルやクラシック作品を多く残した作曲家・指揮者。ミュージカルでは『ウエスト・サイド物語』のほか、『On the Town(邦題:踊る大紐育)』『Wonderful Town』『Candide』が有名。
スティーヴン・ソンドハイムは、オスカー・ハマースタイン2世に学び、多数のミュージカル作品を手がけている。代表作は『Gypsy』『Company』『A Little Night Music』『Pacific Overtures』『Sweeney Todd』など。
ライナー記載のDanny WeisとJohn Finleyによる「Somewhere」とは、Rhinocerosのアルバム「Better Times Are Coming」(1970年)に収録されている曲。編集者が好きだったのだろうか、とんだSomewhere違いだ。恐ろしいことに、JASRACにもそのように登録されてしまっている。
Mike KogalがMike Kennedy名義で1971年8月に出したシングル曲。日本では1972年に「ルイジアナ・グッバイ」というタイトルでヒット、朱里エイコのほかに布施明がアルバムでカバーしている。
Mike Kogalは西ベルリン出身で後にスペインに移住したミュージシャン。1966年の大ヒット曲「Black Is Black」で有名なスペインのグループLos Bravosのボーカルを務めた。
オリジナルは、歪んだエフェクト・ギターのイントロに始まりローテンポでどっしりとしたヘビーなロックといった雰囲気の作品である。一方、朱里エイコが歌ったバージョンは、アップテンポで軽めのポップス的なアレンジになっている。
初期のバージョンはスローテンポなバラードで、The Four TopsやThe TemptationsやTony Benettのカバーが知られている。
Wikipediaによると、Ron MillerがBarbara McNairに書いたものらしいが、Jean DuShonのシングル(1966年)のほうが先に発売されている、とのこと。
その後1968年にStevie Wonderがアップ・テンポにアレンジしてカバー、これが現在最も知られているバージョンである。
Ron Millerはモータウン全盛期にヒットバラードを多数世に送り出したソングライターで、Diana Rossの「Touch Me In The Morning」やCharleneの「I've Never Been To Me」が有名。
元々女性歌手のために書かれた曲だが、男性で初めてこの曲を歌ったのは日系アメリカ人の俳優Jack Soo(ジャック・スー)である。ミヨシ・ウメキ(ナンシー梅木)が主演したミュージカル映画『フラワー・ドラム・ソング』やジュリー・アンドリュースの代表作である『モダン・ミリー』などに出演。TVシリーズ『Barney Miller』のNick Yemana役が有名とのこと。彼の人生を追った「You Don't Know Jack Soo: The Jack Soo Story」という映像作品がDVDで入手できる。
MCによると、朱里エイコが渡米して初めて覚えたのがこの曲なのだそうだ。
朱里エイコがキングレコード時代、まだ新人で売れていない頃に初めて営業で立ったステージがこのベラミだったそうだ。
ビートルズのアルバム「Abbey Road」(1969年)の1曲目に収録された曲で、選挙用の応援ソングとして作られた。特徴的な冒頭の「シュッ」というのは、「Shoot me」と歌っているらしい。
Chuck Berryの「You Can't Catch Me」からの盗作として、著作権者から訴えられたが、この歌や提示された曲を自身のアルバムに収録することで和解している。
確かに似ているが、盗作と言うほどなのかどうか…という感じである。
ビートルズのアルバム「HELP!(邦題:4人はアイドル)」(1965年)に収録された曲。Lennon-McCartneyとなっているが実際はポール・マッカートニーの単独作である。
世界で最も多くカバーされた曲としてギネスブックに認定されているほど、多数のカバーバージョンが存在する名曲。「ヘイ・ジュード」と共に、早くから日本の音楽の教科書に掲載された曲である。
1968年8月に発売されたビートルズの18枚目のシングル曲で、ビートルズ自身が設立したアップル・レコード初のシングルとしてリリースされた。
ジョン・レノンが最初の妻シンシア・パウエルと離婚した頃、ポール・マッカートニーが彼らの子供ジュリアンを励ますために作ったものである。
当時のチェコ・スロバキアで歌詞を変えてマルタ・クビショバに歌われたこの曲は、"プラハの春"と呼ばれるドプチェクによる自由化路線を打ち破ったソ連侵攻(1968年)からベルリンの壁崩壊に伴う民主化実現までの、チェコ人の自由のシンボル曲となった。
エンディングの曲ということで客席と一緒に歌っている。マイクを向けられた皆さんは緊張でもしているのか、一様に歌が下手だ。一般女性客をホステスと間違えてマイクを向けてしまうなど、ちょっとしたチョンボも。
1970年4月に発売されたThe Ides of March(アイズ・オブ・マーチ)の大ヒット曲。
The Ides of Marchは、Blood, Sweat & Tearsの影響を受け、ChicagoやChaseなどと同様、ブラスを取り入れロックとジャズの融合を図ったブラス・ロックのバンドである。代表曲は「You Wouldn't Listen」「L.A. Goodbye」など。
Ides of Marchとはローマ暦の3月15日を意味し、Julius Caesarの「ブルータスお前もか!」で有名な日(BC44年)である。
リーダーのJim Peterikは後にSurvivorというグループを結成、映画『ロッキー3』の主題歌である「Eyes Of The Tiger」を大ヒットさせている。
1937年初演のブロードウェイ・ミュージカル『Babes in Arms』のナンバーで、「レディは気まぐれ」などの邦題で知られているスタンダード曲。1939年にMickey RooneyとJudy Garlandの主演で映画化(邦題:青春一座)された。
また、作者であるロジャースとハートの伝記映画『Words And Music』(1948年)のレビューシーンではLena Horneがこの曲を歌っている姿を見ることができる。
当時の舞台の様子(中央はジーン・ケリー)。「華麗なるミュージカル―ブロードウェイの100年 Vol.3」より。
最も有名なのは、映画『Pal Joey(邦題:夜の豹)』(1958年)でFrank Sinatraが歌ったものだろうか。相手役にはRita Hayworth、Kim Novakという豪華な配役となっている。
『Pal Joey』(原作・脚本:John O'Hara)は、1940年にGene Kellyを主役に初演されたブロードウェイ・ミュージカルである。
2011年には、Tony BennettとLady Gagaのデュエットが話題になった。収録アルバム「Duets II」はビルボードのアルバム部門で1位に輝いている。
バンドが少しだけ演奏を間違えるが、オロオロせずに堂々とサビを歌いに入っているのがわかる。
アメリカの南部に伝わっている民謡が元になっている曲で、「The Rising Sun Blues」というタイトルでも歌われる。
最初期の録音ではメジャー調だったものが、Joan Baez、Dave Van Ronk、Bob Dylanらが歌った頃からマイナー調の馴染み深いスタイルになって行き、イギリスのロック・バンドであるThe Animalsバージョンの大ヒットでスタイルが確立したといえる。
The Animalsのカバーは全編に使われているギターとオルガンのアルペジオや、Eric Burdonの迫力あるボーカルが特徴。1964年6月に発売されるやイギリスのみならず世界的にヒット、ビルボードで3週連続1位、各国のチャートでも1位を獲得した。
日本語版は浅川マキ自身が訳詞して歌った「朝日楼」がよく知られており、ちあきなおみのカバーが白眉である。
朝日楼というのはオリジナルに則ったタイトルで、19世紀に実在した娼館のこと。娼婦が半生を懺悔するオリジナルは、アニマルズのカバーでは男性の歌になり、娼館は少年院に置き換わって解釈されている。
1964年に公開されたフランス・西ドイツの合作ミュージカル映画『Les Parapluies de Cherbourg(邦題:シェルブールの雨傘)』の主題歌である。
映画『シェルブールの雨傘』は同年のカンヌ映画祭でグランプリに輝いた大ヒット映画で、カトリーヌ・ドヌーブの出世作かつ代表作となった。セリフが完全に排除され、すべて歌によって進行するミュージカルで、劇中ではDanielle LicariがCatherine Deneuveの吹き替えを担当した。
当時の大方の有名アーティストにカバーされているが、とりわけフランス語・ドイツ語・スペイン語・イタリア語・日本語と一人で多言語のカバーを歌ったギリシャ人歌手Nana Mouskouriのものが有名。
Jacques Demy、Michel Legrand、Catherine Deneuveのトリオといえば、Françoise Dorléac(ドヌーヴの実姉)、Gene Kelly、George Chakiris、Jacques Perrinが出演した『Les Demoiselles de Rochefort(邦題:ロシュフォールの恋人たち)』(1967年)も名作ミュージカルである。
次につなげるための仕込みのトークのネタを客にバラされる。せめてBrigitte Bardot(ブリジット・バルドー)ぐらいにしておけばよかったものを、即答するものだから客席は大爆笑である。連日通っていたらしいその客に「じゃ、あなたのために歌います」とセンスのある返しでうまくかわす。
ポール・ニューマンとロバート・レッドフォード主演の映画『Butch Cassidy and the Sundance Kid(邦題:明日に向かって撃て!)』(1969年)の挿入歌で、B. J. Thomasが歌った。
Billboard Hot100では4週に亘って1位の座に輝き、1970年の年間チャートでは第4位という大ヒットを記録。1969年のアカデミー賞で歌曲賞を受賞。また、作者の2人は作曲賞を受賞した。
Burt Bacharachは、1960~70年代に数多くのヒット曲を送り出したアメリカの作曲家で、独自のスタイルを持つ稀代のメロディーメーカーとして評価されている。若い頃はマレーネ・ディートリッヒの舞台でバックのオーケストラの指揮やピアノを担当していたようだ。その後、Hal Davidとのコンビで多数のヒット作を出している。Dionne Warwickに提供した楽曲にヒット作が多い。
国内の百貨店では、店内に降雨を知らせる符牒的な意味合いで、この曲か「Singin' in the Rain(邦題:雨に唄えば)」が使われることがある。
1968年ブロードウェイ初演の大ヒット・ロングラン・ミュージカル『Promises, Promises』の2幕ラスト近くで歌われるデュエット・ナンバーで、1969年のグラミー賞最優秀楽曲賞にノミネートされた大ヒット曲である。
このミュージカルは、Billy WilderとI.A.L. Diamondによる、ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン主演のコメディー映画『The Apartment(邦題:アパートの鍵貸します)』(1960年)を原作としてNeil Simonが舞台化したもの。
Bobbie GentryとDionne Warwickによるカバーがよく知られている。特に、Dionne Warwickのカバーは1971年のグラミー賞のポップス部門で最優秀女性ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞に選ばれた。
映画『Casino Royale(邦題:007 カジノロワイヤル)』(1967年)の主題歌で、Dusty Springfieldが歌った。
1968年の第40回アカデミー賞では歌曲賞にノミネートされている。授賞式会場ではSergio Mendes and Brasil '66がこの曲を披露した。彼らのカバーシングルはBillboard Hot100で4位という大ヒットとなっている。
この作品のメロディーは、初代ボンドガールであるUrsula Andressからインスパイアされて作られた。元はインストゥルメンタルだったものにHal Davidが歌詞をつけたということだ。
映画『007 カジノロワイヤル』はイアン・フレミングの007シリーズ第1作となる同名小説(1953年)を基にしたパロディ映画。2006年にはダニエル・クレイグをジェームス・ボンドに、原作に忠実なバージョンが改めて製作された。
Bill Naughtonの小説が原作の映画『Alfie』の主題歌で、エンディングで流れる曲である。イギリスでの公開当初はCilla Blackが歌ったバージョンを使用していたが、その後アメリカまたは全世界で公開された分ではCherの歌唱に差し替えられた。
作曲のBurt Bacharachは、この歌はHal Davidの最高傑作と評価しており、自身が作曲したものの中で1番のお気に入りとなっているようだ。また、Dionne Warwickがカバーしたものも大ヒットしている。
サックス奏者のソニー・ロリンズが担当したサウンドトラック(右)は、映画で使われたスコアを元に別でスタジオ収録したもの。主題歌は収録されていない。
映画『Alfie』は2004年にジュード・ロウを主役にリメイクされた。
1965年にJackie DeShannonが歌った大ヒット曲である。元々はBurt BacharachがDionne Warwickにオファーしたものだったが断られてしまったために、Jackie DeShannonが歌うことになったようだ。当のDionne Warwickは翌年のアルバムでこの曲を歌っている。
邦題は「世界は愛を求めてる」「愛を求めて」。「What The World Need Now」というタイトルのものもある。
コメディー映画『Austin Powers:International Man of Mystery(邦題:オースティン・パワーズ)』には、本人がカメオ出演でこの曲を歌っているシーンがある。
数多くの映画でエンディング曲や挿入歌として使われる人気曲で、前述の『Austin Powers~』を含め、『Bob & Carol & Ted & Alice』『Hot Shot!』『Happy Gilmore(邦題:俺は飛ばし屋/プロゴルファー・ギル)』『Bridget Jones:The Edge of Reason(邦題:ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうな私の12か月)』などコメディ作品で使われている印象が強い。
「Aquarius」はアップテンポに1コーラス。この曲は映画版(1979年)のRen Woodsの歌唱が文句無しの最高峰である。叶わない望みだが、このソウルフルな力強いアレンジのバージョンで聞いてみたかった。
「Let The Sunshine In」はアドリブがカッコイイ。同じフレーズが延々と続くだけに、ソロで歌うには力量が問われそうだ。リードとハモリのパートを思うままに歌ったり、言葉を入れたりするなどの趣向を凝らしている。
朱里エイコが師事したとされているBob Alciverは、オリジナルとなるThe Fifthe Demensionの「Aquarius/Let The Sunshine In(邦題:輝く星座)」(1968年)のアレンジを担当した。この曲は、ベトナム戦争への反戦やヒッピー文化であるフラワームーブメントを反映したミュージカル『Hair』(1967年初演)からオープニング曲とエンディング曲をメドレーにしたものである。
ミュージカル『Hair』は2009年にリバイバル上演され、2010年のトニー賞で再演ミュージカル作品賞を獲得した。
余談だが、ボスニア紛争(1992~1995年)の最中、首都サラエボが包囲され市街地に銃弾が飛び交う中で上演された『ヘアー』を追ったNHKのドキュメンタリ『世紀を刻んだ歌・輝く星座』では、その舞台の様子が一部放送された。BGのカットアウト→アカペラ→ギターのグリッサンドをきっかけにカットインなんてのは今となってはありふれた感があるが、とにかくそのパートを歌う女性の美声は感動ものだ。
1966年初演のブロードウェイ・ミュージカル『キャバレー』のナンバーで、幕切れ前に主役サリーが歌う主題歌である。
ミュージカル『キャバレー』は、イギリス人の作家クリストファー・イシャーウッドが渡米後に出版した『ベルリン物語』を戯曲化した『私はカメラだ』(イギリスの劇作家ジョン・ヴァン・ドゥルーテンによる)を元に、ハロルド・プリンスがミュージカル化したもの。
1972年にはボブ・フォッシーを監督に映画版が製作され、サリー役のライザ・ミネリはアカデミー賞主演女優賞を受賞した。頽廃的な雰囲気と、エムシー役(男性)の白塗りや付けまつげが印象的な作品である。日本初演では、宝塚在団中の順みつきが現役トップスターながら異例の外部出演で主役を務めている。
キャバレーとは、本来ダンスや歌などのショーを楽しめる飲食店のことを言う。過去にはレストランシアターなどと表現することもあった。
今となってはあまりピンとこないことなのでどちらも同じように思われるが、キャバレーとナイトクラブの違いは、ホステス以外の女性を同伴できるかどうかという点だったようだ。現在、風営法でもこの二つは明確に区別されている。
Ginetto Renoが1970年に出した同名のアルバムに収録されてたもの。シングルはカナダのチャートで2位という大ヒットとなり、1971年には全米でアルバムとシングルが発売された。
Ginetto Renoは、ケベック出身のフレンチ・カナディアンの歌手。歌手業のほかに女優や作曲もするマルチ・タレントで、同じケベックのモントリオール出身であるCéline Dionが最も敬愛する歌手として知られている。
Les Leedは、Tom Jonesの「Delilah」(元々はP.J.Probyのために書かれたもの)やEngelbert Humperdinckの「The Last Walz」の作者で有名。
Johnny Worthは、Les Vandykeの他にJohn WorthやJohn Worsleyという名前で知られており、主に60年代に活躍したソングライターのようだ。
1969年1月に発売されたCreedence Clearwater Revival(以降CCR)のセカンド・アルバム「Bayou Country」に収録された曲で、シングルがビルボード2位というグループが初めて飛ばしたヒット作である。
同バンドのボーカル兼ギタリストで、唯一ヒゲのないJohn Fogertyによるもので、Solomon BurkeやIke & Tina Turnerによるカバーがよく知られている。
CCRはこの曲のほかに、反戦歌として放送禁止になった「Have You Ever Seen The Rain(邦題:雨を見たかい)」が有名。
1930年に撮影されたProud Mary
ところで、タイトルのProud Maryというのは人のことではなく、ミシシッピ川を航行する蒸気船のMary Elizabeth号のことで、曲中ではRiver Boatと表現されている。
リバーボートというと、ディズニーランドのアトラクションであるマークトゥエイン号や、ミュージカル映画『Show Boat(邦題:ショウ・ボート)』に登場する船など、後部に赤い大きな水車が取り付けられた瀟洒な装飾が施された船のイメージが強い。
イントロや曲間をつなぐコミカルなメロディーは前田憲男によるものだろうか、詳細は判っていない。
冒頭でメドレーのラインナップをずらっと喋っているが、水前寺清子の曲はどこにも見当たらない。別の会場では歌っていたのかもしれない。
1968年7月に発売されたピンキーとキラーズのデビューシングルで、オリコン1位の座を17週に亘ってキープするという脅威の記録を残した。この記録は現在も破られていない。
レコードの売り上げは200万枚を超え(実際には3~400万枚売ったという話も)、いずみたくが主宰するオールスタッフ・プロダクション始まって以来の大ヒットとなった。
7月という遅いデビューにもかかわらず、同年末の第10回レコード大賞では新人賞を受賞。また、第19回NHK紅白歌合戦には男女混合グループとして初めての出場を果たしている。
ピンキーとキラーズは、セルジオ・メンデスを目指すボサノバ・グループとしてデビュー。ピンキーとは小指と言う意味で、大柄な彼女に合わせて集められた4人の強面の男性メンバーはキラーズ(殺し屋)と名付けられた。ピンキーの山高帽にパンタロンというスタイルがトレードマークとなって人気を集めた。
1969年2月、ピンキーとキラーズをフィーチャーした森田健作・奈美悦子主演による同名の松竹映画が公開された。
1970年4月に発売された辺見マリのセカンド・シングルで、ため息混じりに歌う「やめて~♪」が注目の的になった。
同年末の第12回レコード大賞では新人賞を受賞、第1回日本歌謡大賞では放送音楽新人賞を受賞した。この年から始まった日本歌謡大賞は、レコード大賞を放送するTBS以外の民放各局が持ち回りで開催したものである。また、第21回紅白歌合戦にはこのヒット曲ではなく、サード・シングルの「私生活」で初出場した。
エキゾチックな美貌と大人びた色気で人気だった辺見マリは、1972年に西郷輝彦と結婚し引退した。その後、離婚を経て芸能界に復帰、娘でタレントの辺見えみりとの確執が話題になった。
1970年10月に同名の東映映画が公開され、劇中で辺見マリが「経験」を歌った。この映画は東映の専属俳優だった谷隼人が大原麗子を相手に初主演した作品である。準主役には渡瀬恒彦、特別出演として梅宮辰夫と大信田礼子がキャスティングされた。
1970年3月に発売された和田アキ子の4枚目のシングル曲。オリコンチャート11位、レコードの売上げが約20万枚という彼女にとって初めてのヒット曲で、前年の「どしゃぶりの雨の中で」と並んで初期の代表曲となった。
同年末の第12回日本レコード大賞では馬飼野俊一が編曲賞を受賞している。第21回紅白歌合戦にはこの曲で初出場。また、3年後の第24回紅白歌合戦では早くも2度目の歌唱を披露している。この年は「私は歩いている」や「悪い奴」などの佳曲があるものの、前年の大ヒット曲「あの鐘を鳴らすのはあなた」の影響が大きすぎたのだろうか。
和田アキ子は、「和製R&Bの女王」の異名を持つ歌手。1971年には「あの鐘を鳴らすのはあなた」でレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞するなど、歌手としての輝かしい実績を持つ。姉御肌のキャラクターから"ゴッド姉ちゃん"や"芸能界のご意見番"などの愛称で怖がられていると言う面もある。
1979年、前述のイメージが定着するのを嫌がり歌手に専念させたいと考える和田サイドがテレビ番組の降板騒ぎを起こし、それ以降人気が低迷。同年末の紅白歌合戦に落選、1985年までの6年間は紅白歌合戦に出場していない。その期間を除いてはコンスタントに出場しており、現在までに通算30回以上の出場となっている。
紅白では同じ歌を繰り返し歌っているという印象がなきにしもあらずだが、第49回紅白歌合戦の大トリで途中からマイクを外して歌った「今あなたにうたいたい(作詞・作曲:加藤登紀子)」の絶唱は記憶に新しいところだ。
ちなみに、所ジョージとうつみ宮土理が司会をした日本テレビ系のクイズ番組「笑って許して!!」(1983~1984年、1985~1986年)とは何の関係もない。
1967年12月に発売されたザ・タイガースのシングル曲。100万枚以上売り上げた大ヒット曲ではあるが、同時期のザ・フォーク・クルセダーズ「帰ってきたヨッパライ」のヒットが壁となってオリコン1位を獲得できなかった作品である。
曲調が変わるキッカケで振り向きざまに観客めがけて指を差すアクションが話題になった。「君だけに~♪」と、ボーカルのジュリー(沢田研二)に指を差されて、女性ファンは大いに嬌声をあげるというのが定番の風景で、中には失神してしまう者もいたようだ。
ザ・タイガースは一連の大ヒットによって、数あるGSグループの中で抜きん出て人気があり、名実共にトップ・グループとしてGS全盛の音楽シーンに君臨した。
一方、人気の高さにもかかわらず、紅白歌合戦には出場していない。これは、長髪や派手な衣裳が放送倫理に抵触するとして、GSグループがNHKから締め出されていたためである。ちなみに、「ブルーシャトウ」でレコード大賞を獲ったジャッキー吉川とブルー・コメッツが、唯一紅白歌合戦に出場したGSグループとなっている。
また、ザ・タイガースを主役にした東宝映画3作のうち2作(『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』『ザ・タイガース 華やかなる招待』)では、冒頭の目玉曲としてこの曲が使われている。
どの作品も久美かおりをヒロインに起用している。久美かおりは、1968年にレコード大賞新人賞を受賞したほか、同年のレナウンのCMソングを歌った気鋭の新人だったが、1970年に引退している。
1972年4月に発売された欧陽菲菲のサード・シングルで、ボディ・アクション呼ばれる動きの激しい振り付けが話題になった。同年末の第23回紅白歌合戦にはこの曲で初出場。外国人ソロ歌手として初の紅白出場という快挙を成し遂げた。
前年のデビュー曲「雨の御堂筋」はレコードの売上が100万枚を超える大ヒットだったものの、紅白出場には至らなかった。9月発売という遅いデビューではあったが、第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞している。
この曲は1971年に大ヒットしたChaseの「Get It On(邦題:黒い炎)」を意識したブラス・ロックとなっている。また、歌詞の内容を反映させた楽曲の特徴である疾走感は超絶技巧のベース演奏によるもので、おそらく寺川正興の演奏だと思われる。
台湾では「就這樣甜蜜活到底」というタイトルで歌われており、様々な歌手がカバーする人気曲だった。
1972年6月に発売された山本リンダのシングル曲で、ミノルフォンからキャニオン・レコードへの移籍後第2弾として発売されたシングル。
デビュー曲「こまっちゃうナ」(1966年)のヒット以来長らく人気が低迷していた山本リンダが大胆にイメージチェンジしたもので、このプロジェクトは作詞・作曲の阿久悠と都倉俊一によるものだった。
オリコン最高3位、売り上げ30万枚という最大のヒット曲。同年末の第14回日本レコード大賞では作曲賞を受賞、第3回日本歌謡大賞では放送音楽賞を受賞した。また、第23回紅白歌合戦にこの曲で5年ぶりの出場を果たした。この時にはNHKからのお達しがあったため、売りのひとつだったへそを隠した衣装で登場した。
へそ出しルックにくねくねとした腰つきで歌ったこの曲がお茶の間に流れた時、親子揃って一緒にテレビを見るような家庭では、ドラマでいきなり濡れ場が流れた時に匹敵する微妙な空気になったそうだ。思春期の男子のいる家庭では特にそうだったのだろう、なんとも微笑ましいのどかな時代である。
と言っても、昔のテレビは今以上におっぱいポロリが普通にあった気がするのだが。お笑いなんかとは違って、過度に性的で悩ましすぎたのだろうか……よくわからない。
本場アメリカのボディ・アクションをお目にかけましょうと以下2曲を歌う。
1956年1月に発売されたElvis Presleyのシングル曲で、サン・レコードからRCAビクターへの移籍第1弾となった(新作でという意味で。実際には前年12月から1月の間に多数のシングルを発売している)。
ビルボードのシングルチャートでは7週に亘って1位を獲得、レコード売り上げは200万枚を超え、シングルの年間チャートでも1位を獲得、Elvis Presleyにとって初めての大ヒット曲となった。
ホテルの窓から飛び降り自殺をした人物についての新聞記事を基に作られ、レコーディングにはミスター・ギターの異名を取る大スターChet Atkinsが参加。多額の移籍金回収のために力が入っているように見えるが、当初レコード会社はこれほどのヒットを予想してはいなかったようだ。
この曲の大ヒットでプレスリーは全米で不動の人気を確立。アメリカの若者に支持されるロックンロール文化がここから始まり、ビートルズをはじめ数々のアーティストに影響を与えたと言われている。一方で、ロックを聞く者は不良という世代間のギャップや対立もここから始まった。
1969年5月に発売されたTom Jonesのシングル曲で、彼の代表曲のひとつである。
1969年のサンレモ音楽祭でJunior MagliやThe Casualsというバンドが歌った「Alla Fine Della Strada(邦題:恋の終わり)」がオリジナル。The Casualsバージョンの出だしは、刑事ドラマ『太陽にほえろ』のメインテーマのイントロにとてもよく似ていて面白い。
イタリアの一音楽祭だったサンレモ音楽祭は、1958年の優勝曲「Nel blu dipinto di blu(英題:Volare、邦題:ボラーレ、歌:Domenico Modugno)」が第1回グラミー賞(1959年)で最優秀レコード賞を獲得したことで一躍有名になり、カンツォーネブームの火付け役ともなった。
「Volare」といえば、Gipsy Kingsのカバー(1989年)がヒットし、ビールのCMで頻繁に使用されているので、耳にしたことのある人も多いだろう。
また同名の作品として、Maurice ChevalierとJeanette MacDonaldが主演した映画が有名。1932年に公開されたミュージカル・コメディ映画で、音楽はロジャースとハートが担当した。Jeanette MacDonaldが歌った同名の主題歌がヒットしている。
1913年、イギリスの弁護士だったFrederic WeatherlyがLondonderry Air(邦題:ロンドンデリーの歌)に歌詞を当てこの曲を発表した。元々は別の曲のための歌詞だったようだ。1915年にErnestine Schumann-Heinkという女性のオペラ歌手によるものが最初の録音である。
ロンドンデリーの歌とはアイルランドの民謡で、タイトルも歌詞もない器楽曲だったメロディーをJane Rossという女性が楽譜にしたものである。イギリス領北アイルランドでは事実上の国歌となっている。
ジャケットにはカーネギーホールの文字が。
1940年代にJudy GarlandやBing Crosbyが歌ってヒット。また、1960年前後にHarry BelafonteやAndy Williamsがリバイバル・ヒットさせている。
日本ではアイ・ジョージが原語のままでシングルを発売。1963年の第14回紅白歌合戦にこの曲で出場している。ちなみに、アイ・ジョージは朱里エイコより10年以上も前にカーネギーホールの舞台に立った初めての日本人歌手である。
日本ではなかにし礼の訳詞によるものが有名。この藤田敏雄のバージョンは戦地へ赴く息子に対する母親の心情をより前面に出したものになっており、岸洋子による歌唱が知られている。
色々な歌手に歌われているが、1970年4月に発売された岸洋子のシングルが最もよく知られている。オリコン最高2位、年間シングルチャートでも12位という大ヒット曲となり、同年末の第12回レコード大賞では歌唱賞を受賞した。彼女は同年に膠原病を発症、このためレコード大賞の授賞式には電話のみでの参加となった。また、第21回紅白歌合戦は出場を辞退している。
岸洋子がシングルを出した翌月にはコーラス・グループであるザ・シャデラックスもシングルを発売。いずみたく門下での競作だった。
もともとは倍賞千恵子の短編ミュージカルのために作られた曲ということだが、作品のタイトルは判明していない。オリジナルは6分超という大作で、これを短くアレンジして1969年5月にフォー・セインツ(後のフォー・クローバース)が初めてレコード化した。
4番+1番のリフレインからなる歌詞構成で、歌い手によって歌詞が編集されて様々なバージョンがあるようだ。
朱里エイコが歌っているのは1・3・4番にあたる。途中で歌詞を忘れたのか歌詞が少しだけ異なっている。ギターのカッティングやミュートトランペットを使ったファンキーなアレンジが特徴となっている。
舞台では特技の玉乗りを披露した。
アメリカで修行中の朱里エイコは人目を引くためだったら何でもやったと言っているが、そんな彼女が習得した特技はなんと"玉乗り"である。
オッフェンバックの「天国と地獄」などを使ったオリジナルだろうか、サーカスのピエロが玉乗りに成功するまでのショート・ミュージカルといった作品になっている。
この年開催されたミュンヘン・オリンピックなど、時事的なネタを取り入れている。この回から公式種目になった柔道だが、どうやら日本勢はパッとしなかったようだ。このオリンピックは、パレスチナゲリラがイスラエルの選手11人を殺害した「ミュンヘンオリンピック事件」で知られている。
1966年初演のブロードウェイ・ミュージカル『Sweet Charity』のナンバーで、オリジナルのタイトルは「Big Spender」である。
イタリア映画の巨匠フェデリコ・フェリーニの映画『カリビアの夜』(1957年)を下敷きにNeil Simonが脚本化したミュージカルで、Gwen Verdon(映画「Damn Yankees(邦題:くたばれヤンキース)」や「Cocoon」で有名)が主役を務めた。
1969年にはシャーリー・マクレーンを主役に映画化され、振付のボブ・フォッシーが初監督を務めたことでも話題になった。フォッシーの独特な振り付けが見ものである。
同年から翌年にかけてPeggy LeeやShirley Basseyらがカバー。特にShirley Basseyのバージョンは1967年12月のUKチャートで21位というヒット曲となった。
このミュージカルからは「Big Spender」の他に、新興宗教の教祖役で出演したSammy Davis, Jr.が歌う「Rhythm Of Life」や「If My Friends Could See Me Now」というヒット曲が生まれた。
1970年盤と1971年盤
1969年5月(日本では1970年2月)に発売されたNeil Diamondのシングル曲である。リリース当初はさほど人気が出なかったものの、Andy WilliamsやElvis Presleyらにカバーされたこともあってか、1971年にUKチャートで8位を獲得するという遅咲きのヒット曲となった。
元々「Sweet Caroline (Good Times Never Seemed So Good)」というタイトルで発売されたものだが、1971年に再発売された際には「Sweet Caroline」というシンプルなタイトルに改められた。
この曲は、Neil Diamondが第35代アメリカ大統領であるJohn F. Kennedyの長女キャロラインをイメージして作ったものである。1968年、John F. Kennedyの弟であるRobert Kennedyが大統領選のキャンペーン中に暗殺された際、雑誌LIFEの表紙を飾ったキャロラインからインスピレーションを得た、と後年のインタビューで答えている。
当のキャロライン・ケネディは2013年11月19日から駐日大使に着任、色々な面で物議を醸している。
古典落語の「死神」を原案として書かれた労音ミュージカル『みゅーじかる死神』のナンバーのひとつで、情感のあるロマンチックな雰囲気の作品になっている。
『みゅーじかる死神』(出演:西村晃、ピンキー(今陽子)、もんたよしのり、市村正親ほか)は、1972年5~8月と1973年3~4月の間に50公演づつ100公演を行ったそうだが、この「顔を見ないで」は後半ツアーのための追加曲として書かれたものである。
岸洋子の日生劇場リサイタル「光と影」のライブ盤(1973年)や、いずみたくシンガーズのイベント「いずみたく シングアウト コンサート」(1974年)、『私はカメラ』を元に舞台を旧満州の大連に置き換えたミュージカル『洪水の前』(作:矢代静一、作・演出:藤田敏雄、作曲:いずみたく、出演:財津一郎・秋川リサほか、初演1980年)のナンバーにもタイトルを見ることができる。
大原麗子のシングルB面にも同名曲があるが、こちらは別物(作詞:山口あかり、作曲:小林亜星)である。
1964年1月、雪村いづみが大阪労音リサイタルで初披露した曲で、日本の元祖メッセージソングかつ反戦歌といわれている。あまりに破壊力のあるこの歌を聴かされた客席ではあちこちで嗚咽の声が聞こえたそうだ。
歌は病の母とその子供との別れが大部分を占めているが、急展開する最後の5行、父との約束と軍靴の音を思わせる演出にこの歌のすべてが集約されている。
シングルは翌年の1965年の発売(月不明)。7インチ45回転のシングル盤ながら6分41秒もの長編を収録するために新技術が導入されたとのこと。どういう技術かは判っていないが、互換性の問題を考えると音溝の間隔を縮めたものと思われる。
元々長編の曲ではあるが、朱里エイコがこのコンサートで歌ったものは8分30秒ほどで、更に超長尺のパフォーマンスになっている。また、シャンソン的なオリジナルのイントロと違い、トランペットとサックスによるジャズ風なイントロになっている。
ちなみに、雪村いづみのシングルでバックを務めたザ・ウエストライナーズとは、本作で演奏をしている猪俣猛とサウンド・リミテッドの前身となるジャズバンドである。
パーティーの終わりはいつも寂しい……と始まるこの曲に関する情報は全くない。しっとりとした切ない曲調で、コンサートの終盤にぴったりの作品。
作詞が山川啓介、作曲が前田憲男ということだが、JASRACの登録では作詞が藤田敏雄と山川啓介の共作ということになっている。
このコンサートに書き下ろされたオリジナルというのは考えにくいし、いずみたく関連のミュージカルに使用されたナンバーだろうか?
岸洋子がリサイタルのリハーサルで歌ったという音源をYoutubeで聴くことができる。これは朱里エイコがこのコンサートで歌った2番にあたる部分になる。
→岸洋子 灯りを消してライナーでは「ダンス天国」と書かれているが歌っておらず、メンバー紹介のコーナーとなっている。この時のバックのリズムがそうなのだろうか?
フェンダー・ローズらしきキーボードの音がたまらなくカッコイイ。
「ダンス天国」はChris Kennerが1962年10月に発売したシングルである。最もよく知られているのは1966年6月に発売されたWilson Pickettのカバーで、ビルボードHot100では6位を記録、R&Bシングル部門では1位という大ヒットとなった。
Fats Dominoとして知られている共作のAntoine Domino Jr.の名前がクレジットされていないのは、楽曲のロイヤリティと引き換えに、翌1963年この曲のシングルを出しているためである。
有名な曲中の“ナーナナナナー”というフレーズは、Cannibal & the Headhuntersのバージョン(1965年)から加わった。歌詞を忘れたリードシンガーがそういう風に歌ったところから定着したと言われている。
ライナーではMAY WAYと誤植している。
いつからこういう風に歌うようになったのかは分からないが、後半のリプライズを日本語歌詞で歌うお馴染みのスタイルだ。
→アルバム「LAS VEGAS HERE I COME」 (SideB M6)
イエス・キリストの誕生にまつわる逸話を歌にした、クリスマスを祝う歌(クリスマス・キャロル)の中で最も有名な作品である。
Joseph Mohr(左)とFranz Xavier Gruber(右)
元は「Stille Nacht」というドイツ語の曲。オーストリアはザルツブルグの近く、オーベンドルフという村にある聖ニコラウス教会の助祭だったヨゼフ・モールが書いた詞に、村の音楽教師で教会のオルガン奏者だったフランツ・クサーヴァー・グルーバーが曲をあてたもの。1818年のクリスマス前日、教会のオルガンが故障したために急場しのぎで作られたギター伴奏の曲である。
前述のエピソードを元にフィクションを加えたラブ・ロマンス映画『Magdalene(邦題:マグダレーナ~「きよしこの夜」誕生秘話)』が1989年(日本は1990年)に公開されている。
ここで歌われている英語詞を訳詞をした人物は不明とされている。日本でよく知られている「きよしこの夜」は、牧師で賛美歌の作詞を数多く手がけた由木康が訳詞した。
1948年にDoye O'Dellが初めて歌ったと言われているが、翌年にカントリー歌手のErnest Tubbが出したレコードのヒットで広く知られるようになった。
その後、Elvis Presleyが1957年10月に発売された4枚目となるアルバム「Elvis' Christmas Album」でカバー。このアルバムはビルボートのアルバム・チャートで4週連続1位という大ヒット作になった。
1964年から翌年にかけて数度シングル・カットされており、どのバージョンもヒットした。また、「White Christmas」とのカップリングなんていう面白いバージョンもある。
これら一連の大ヒットにより定番のクリスマス・ソングとなり、現在に至るまで数多くの有名歌手にカバーされるスタンダード曲となった。
ちなみ"Blue Christmas"とは"Longest Night"とも呼ばれ、クリスマスの直前の降誕節の終りに祝われるもの。日本での冬至に当たる。
James Lord Pierpont
ボストンの牧師であるジェームズ・ロード・ピアポントが1857年に作ったもので、自身の教会の感謝祭で歌うために作ったものである。
元々は「One Horse Open Sleigh(1頭立ての橇)」というタイトルで、若者たちが冬に橇で競争する様子を描いたもの。これをクリスマスに歌ったところ、好評で各地に広まっていったと考えられている。
感謝祭とは、七面鳥の日や収穫感謝祭と呼ばれ、作物の収穫を祝い神に感謝するものである。アメリカでは11月の第4木曜日、カナダでは10月の第2月曜日となっている。また、近年Thanksgiving Dayといえばセールの日というイメージが強く、宗教的な意味合いは薄れてきている。
ライナーの作詞作曲者のところにTradと書かれているが、Traditionalを略したものだろうか。
演歌と言うよりもお囃子のような歌と、色っぽいジャズの演奏という取り合わせがとても面白い。
オリジナルは新聞記者から作家となった三井良尚が発表した「新さのさ」(1958年)を江利チエミが歌ったもの。法界節から派生した謡曲「さのさ節」は、明治30年頃から流行り出した。明清楽の「九連環」が元になった法界節は、月琴の演奏と共に歌われたそうだ。
九連環
左から美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミ。
九連環とは、チャイニーズリングと呼ばれる最古の知恵の輪のひとつ。秦代の伝記に登場するほか、諸葛亮が妻のために考案したとも言われている。この難解な知恵の輪とかけて男女の関係を歌ったのが歌曲「九連環」である。
江利チエミは、美空ひばり・雪村いづみと共に三人娘(グループ名ではない)として1950年代後半に一世風靡した歌手。女優としても日本の芸能界に多大な足跡を残している。初代の実写版『サザエさん』や、日本初のブロードウェイ・ミュージカルである初演の『マイ・フェア・レディ』や『アニーよ銃をとれ』など代表作が多数。
父親は客船バンドのバンドマスターを務めるなど、才能あるミュージシャンだったという久保益雄。母親は東京少女歌劇のスター谷崎歳子で、西に天津乙女・東に谷崎歳子と言われるほどだったらしい。いわゆるサラブレッドである。