ジャケット写真と同じ衣装でボーリングに興じる。
ファーストアルバムということもあり、恋のライセンスB面「ミスター・スマイル」、「北国行きで」のみが彼女自身の楽曲となる。持ち歌自体がが少ないということもあるが、当時は持ち歌が2~3曲で残りは全てカバー曲というアルバムは別に珍しいことではなかった。
邦楽カバーの選曲に注目すると、同時期のヒット曲の中から、オリジナル歌手のエポックメイキングとなったような曲ばかりを揃えてきている感がある。再デビューに際して起死回生を祈願するかのような意図なのかどうかはわからないが、面白い。
洋楽カバーは多彩なジャンルから、彼女の押し出しの強い歌唱力に合わせたセレクション。帰国して間もない朱里エイコの真価は、やはり邦楽のカバーよりも洋楽のカバーで発揮されているように思われる。目玉がB面というのも変な話だが、とにかくB面の6曲はどれも聞き応えがあるものになっている。
楽曲のアレンジはA面の邦楽を「北国行きで」を作曲した鈴木邦彦、B面の洋楽はTV音楽やアレンジャーとしての活躍がめざましかったジャズピアニストの前田憲男が担当した。
コカ・コーラのテーマソングを歌った関係だろうか、リプリーズのロゴの下にコカコーラのシールが貼られた中古品が出回ることがある。ノベルティとして配布されたものか、何かを集めて送るともらえるといった懸賞品だったのかは判っていない。
オリジナルは、1970年にオーストリアの歌手であるUdo Jürgensが歌った「Was Ich Dir Sagen Will(邦題:夕映えのふたり)」である。
翌年にはイギリスの有名歌手であるMatt Monroeの英語版がヒットするなど、各国語に翻訳され世界的な大ヒット曲として知られている。
日本語版はなかにし礼による訳詞によるもので、ペドロ&カプリシャスのデビュー曲にしてグループ最大の大ヒット曲となった。
ペドロ&カプリシャスは、パーカッショニストであるペドロ梅村が率いるラテン・ロックバンドである。カントリー、ポップス、ロックなど幅広い洋楽レパートリーを持つ。後年はアダルト・コンテンポラリも得意とした。
メイン・ボーカルである前野曜子は宝塚歌劇団出身(芸名・弓千晶)。2年で同劇団を退団し歌手に転身、西丘有理(にしおかあり)として歌手デビュー。その後リッキー&960ポンド(西丘有里として活動)を経てペドロ&カプリシャスに加入した。深酒によるトラブルや外国人アーティストを追っての出奔などのスキャンダルが知られている。1988年7月31日、肝臓病のため40歳の若さで夭折(奇しくも朱里エイコと命日が同じである)。
1971年3月に発売された尾崎紀世彦のセカンド・シングルの曲で大ヒット曲。第13回日本レコード大賞と第2回日本歌謡大賞を受賞し、同年末の第22回紅白歌合戦にはこの曲で初出場を果たした。レコード大賞では高見山(外国人初の関取)の肩に乗ってVサインをしている姿が印象的である。
もともとは三洋電機のルームエアコン「健康」のCMソングとして筒美京平が作った曲にやなせたかしの歌詞を付けたものだった。これを槇みちるが歌ったが、CMには不採用となった。
その後、阿久悠がこの曲に安保闘争で挫折した青年の孤独をテーマにした歌詞を付け、「ひとりの悲しみ」というタイトルで発表。コーラスグループのズー・ニー・ヴー(メインボーカルは1978年に映画『キタキツネ物語』で共演した町田義人)により1970年にリリースされたがヒットにはつながらなかった。
大ヒットした「また逢う日まで」は実に3度目のリメイクということになる。
2度目の長期渡米で各地を回っていた朱里エイコは、たまたま日系のスーパーでこのレコードを手にした。実力派の尾崎の人気に火がついていることを知り、本格的に日本を拠点として活動する決意をしたということだ。
1969年から1970年にかけて「恋の奴隷」「恋狂い」「恋泥棒」の大ヒットで人気歌手となっていた奥村チヨがイメージチェンジを狙って歌ったものである。このイメージチェンジは本人の強い希望により実現した。
作曲の浜圭介は1960年代に牧幸次や浜真二と言った芸名で歌手活動をしていたがあまり売れなかったようだ。その後作曲家に転身、奥村チヨの「終着駅」や三善英史の「雨」がヒットし人気作曲家となった。このヒットが縁で奥村チヨと浜圭介は1974年に結婚した。
奥村チヨの最大のヒット曲は恋3部作のひとつである「恋の奴隷」。タイトルのせいか内容のせいか、NHKの放送コードに引っかかり、ミリオンセラーながら初出場となる紅白歌合戦(1969年第20回)では歌うことが出来なかった。
1971年10月に発売された伊東ゆかりのヒット・シングル曲である。同年末の第22回紅白歌合戦にはこの曲で出場した。
伊東ゆかりは、中尾ミエ、園まりと共に「スパーク3人娘」や「ナベプロ3人娘」として1960年代中頃に絶大な人気があった。
1967年の大ヒット曲「「小指の想い出」をはじめ、「恋のしずく」「朝のくちづけ」「知らなかったの」などのヒット曲にも恵まれたが、1970年代に入ってからは低迷期を迎えることになる。
1970年には渡辺プロダクションから独立しレコード会社を移籍。また、佐川満男との結婚、出産と公私共に慌しい時期を経て久々に放ったヒット作がこの「誰も知らない」だった。
オリジナルはDelaney & Bonnieという夫婦デュオが歌った「Groupie (Superstar)」という作品である。1969年12月に発売されたシングルは、短命に終わったスーパー・バンドであるBlind Faithの解散後、Delaney & Bonnieのツアーに参加していたEric Claptonの楽曲とのカップリングとなっている。
1971年に兄妹デュオであるカーペンターズが「Superstar」としてカバーし大ヒット、代表作のひとつとなっている。
テレビ番組でベット・ミドラーが歌っているのを見たチャード・カーペンターが、妹のカレン・カーペンターにぴったりの曲だ、と取り上げたのがきっかけと言われている。
ベット・ミドラー自身は後にこれを改めて録音し、1972年に発売されたデビュー・アルバム「The Divine Miss M」に収録している。
1971年に世界的競作で話題になった作品である。中でもスペインのLos Pop Topsというグループが英語詞で歌って世界的に大ヒット。日本でも、オリコンチャートで最高2位を獲得している。
元々はフランスのシンガーソングライターであるHubert Giraudがフランス語で書いたものである。レコーディングされ一番最初に世に出たのは、イタリア語に翻訳されたIvana Spagnaのデビューシングルである。その後各国語に翻訳され、国境を超えての競作となった。
この他に、Nicolettaという女性シンガーが歌ったフランス語版がよく知られている。
まれに「Mammy Blue」というタイトルで表記される場合がある。
イアン・フレミングの小説ジェームズ・ボンドシリーズの第4作で、映画としては1971年公開の第7作『007/ダイヤモンドは永遠に』の主題歌である。歌ったのはShirley Basseyで、彼女が主題歌を歌うのは『007/ゴールドフィンガー』(映画第3作、1964年)に続いて2度目となった。
前作『女王陛下の007』(映画第6作、1969年)ではジョージ・レーゼンビーが1作だけジェームス・ボンド役を演じている。この映画はショーン・コネリーのボンド復帰作であり、かつ卒業作となった。
ポール・サイモンがゴスペルに影響を受けて作ったもので、解散直前となる1970年1月に発売された、Simon & Garfunkelの同名のアルバムの収録された曲である
アルバムはビルボードのアルバム部門で10週連続1位を獲得。シングルは「The Sounds of Silence」(1965年)、「Mrs. Robinson」(1968年)に続いて3度目となる全米1位獲得の大ヒット曲となった。
多数のアーティストにカバーされ、Aretha Franklin、Elvis Presley、また、ディスコ調にアレンジされたLinda Cliffordのバージョンが有名。
日本では森山良子のカバーがよく知られている。彼女はこの曲で第21回紅白歌合戦(1970年)に出場した。
1968年に発表されたトム・ジョーンズのヒット曲である。各国のチャートで1位を獲得、彼の代表曲のひとつになっている。
作詞と作曲のBarry MasonとLes Reedは、この曲でアイヴァー・ノヴェロ賞(優れた作詞家・作曲家に毎年贈られている、イギリスでは非常に栄誉ある賞)を受賞した。
トム・ジョーンズはイギリス出身の歌手で、1960~70年代に活躍した声量豊かでパワーのある歌手である。
「It's Not Unusual(邦題:よくあることさ)」「Love Me Tonight(邦題:恋の終わり)」「I'll Never Fall In Love Again(邦題:最後の恋)」「She's A Lady」などのヒット曲が有名。これらの曲は朱里エイコのレパートリーとして度々登場している。
70年代を通してセックス・シンボル的な存在だったようで、前を大きくはだけたシャツに十字架のロザリオと胸毛いう、日本人には到底真似できない(似合わない)色気で女性を熱狂させた。
当時の来日公演にまつわる記事などでは、男性陣の嫉妬丸出しっぷりが面白い。
1932年、Val Rosingという歌手とThe Ray Noble Orchestraの演奏によって録音されたものがオリジナルであると言われている。
翌年にBing CrosbyやRuth Ettingがカバーしたことで一躍人気曲となり、現在に至るまで数え切れないほどの歌手にカバーされいてる。
中でも最も有名なのが、1966年にOtis Reddingがカバーしたもの。オリジナルの牧歌的な雰囲気から一転、ブラックでソウルフルなアレンジが話題になった。
朱里エイコのバージョンに最も近い雰囲気なのは、Three Dog Nightによるカバー(1968年)や、1970年に発売されたTom Jonesのアルバム「I (Who Have Nothing)(邦題:アイ)」の中に収録されたもの。
前田憲男のアレンジによる朱里エイコバージョンは、後半のアップテンポなパートがどのバージョンよりも速くなっており、まさにダイナマイト・ソウルといった感じである。