ワーナー・パイオニアから発売された第1弾シングル。
両面とも、キング・レコード時代から朱里エイコの楽曲に携わってきた森岡賢一郎をアレンジャーに起用した。
この頃はまだアメリカでのショー契約が残っていたため、日米を行ったり来たりしていたようだ。本格的に日本を拠点とするのは1971年10月頃からになる。
そのためか意図的なのか、ジャケットは渡米中に掲載された新聞記事の切り抜きを使ったデザインになっている。
ダブルジャケットの表面には、武者修行中の朱里エイコがバンドを引き連れて回った地名が列挙されている。香港・シンガポール・バンコク、はたまたヨーロッパにまで行っていたとは驚きだ。
ENTERTAINMENT EIKO SHURI ON STAGE
Just Returned From Las Vegas!
AROUND THE WORLD
U.S.A.
Las Vegas, Reno, Hollywood, Los Angeles, San Francisco, New Orleans, New York, Miami & Puerto Rico.
Europe & Asia
Rome, Paris, London, Hong Kong, Singapore & Bangkok
1969年の暮、朱里エイコは単身渡米した。舞姫として有名であった母親のミサオの影にかくれてエイコの存在は目立たなかった。そんな彼女が武者修業のようにショウ・ビジネスの盛んなアメリカに単身とびこむ冒険を敢行したのは大きな決断のいることであった。
70年1月、ラスヴェガスでのショウの大成功、2月"エイコ朱里とそのバンド"を組織しての「サハラ・ホテル」出演は2ヶ月に亘るロングランであった。彼女の名は一躍全米になりひびき、その後、ネヴァダ、ニューヨーク、ロスアンゼルス、ハワイと"エイコ朱里"のワンマン・ショウは好評の中に続いた。
本年2月、エイコ朱里は帰国した。1年間のアメリカでの成功は彼女自身を大きく変え、母親の影に隠れたエイコではなく世界に大きくはばたく日本の代表的歌手としての風格さえそなわっていた。
私は熱海のホテルのラウンジで歌うエイコを見た。温泉の観光客の多くは地方の人達で彼らにとってエイコの歌う英語の歌は理解しにくい。だが彼らの多くはショウマン・エイコの舞台に感動していた。エイコ朱里は今や日本の誇る国際的シンガーなのである。(和賀仲麿)
ジャケット裏面の社名表記が「ワーナーブラザーズ・パイオニア株式会社」となっている。
ワーナー・パイオニアに移籍しての第1弾は、シンプルでポップな曲となっている。
ほぼキター・ドラム・シロフォンのみの淡々としたメインパートと、ステージで培った複雑なスキャットによるエンディングの対比が面白い。
制作当時、次回シングル「北国行きで」が既に控えてなかったとしたら、再デビューにはちょっと地味な気がする。B面と共に手探り状態だったのだろうか。
恋愛をテーマにしているのは相変わらずだが、歌われる女性のキャラクターが今までにない爽やかな感じである。
別れただの捨てられただのは、これからという彼女にふさわしくない。尤も次回作で最大のヒット曲「北国行きで」はそういう曲だが……。
1970年、The Supremesが新たなリード・ボーカルにJean Terrellを迎えて出した「Everybody's Got The Right To Love(邦題:恋のライセンス)」とは当然ながら別物。
前年の1969年、シングル「Someday We'll Be Together(邦題:またいつの日にか)」を最後にDiana Rossがグループから脱退している。
特徴的な色っぽいギターとシロフォン?が特徴の曲。これはロック調演歌というのかブルースというのだろうか。似ても似つかないのに北島三郎の「与作」を思い出してしまう。
片桐和子は、必殺シリーズの主題歌の作詞、「アニー」などのミュージカルやTVシリーズ「フラグルロック」の訳詞などを手がけている。
後年、朱里エイコがRCAに移籍した際のシングルでも歌詞を提供した。
小松久は、ザ・ヴィレッジ・シンガーズのギタリスト。2002年に島谷ひとみがカバーしてヒットした「亜麻色の髪の乙女」などで有名。同グループは1971年に解散。その後は音楽ディレクターとして、内藤やす子、TUBE、ZARDなどを担当した。