週刊プレイボーイ 1976年7月13日号より
ジャケット裏面の写真と同じ場所で撮影されたもの (週刊明星 1976年4月18日号より)
1976年2月14日、ラスベガス・フロンティアホテル(2007年に廃業・爆破解体された)のラウンジで開催されたワンマンショーを録音したもの。ワーナー・ブラザーズのプロデューサーであるDavid Francoにより制作されたライブ・アルバムである。
前年の1975年11月、朱里エイコはオーディションで有力者の目に留まり12月から2週間のショーの契約を取りつけることに成功した。更に翌年2月からは、好評につき1ヶ月の間再演されることになった。この録音はその再演期間中のものということになる。
ちなみに、ラスベガスでのライブ・レコーディングは日本人初とのこと。この後、五木ひろしやピンク・レディーなどのラスベガスでのライブ盤が競うように発売されるようになった。
会場では、バレンタインデーにちなんで、客席の男性に「愛してます」という日本語を教える場面があったりして面白い。日本でヒットした「北国行きで」や「さくらさくら」を紹介したりするなど、単なる英語を歌う日本人歌手というのではなく、さらっと異文化交流のできるナショナリティを持ったエンターティナーだというのがわかる。
新曲の「I'M NOT A LITTLE GIRL ANYMORE」から十八番の「MY WAY」まで、ジャンルを問わないバラエティ豊かな構成で、あっという間にフィナーレを迎える。
ところで、ライナーには3月25日発売、その後アメリカでも発売予定と書かれている。
Wikipediaの情報によると、"アメリカでは「VALENTINE DAY IN LASVEGAS」のタイトルでレコード発売"とのことだが、残念ながら現物はおろかLP発売の情報にもお目にかかったことがないので、当サイトでは未確定情報とする。
まだこの時点では発売されていないが、この前年の秋に録音したTOWER OF POWERとのシングル曲をオープニングで歌う。MCではそのことが紹介されていて、一部客席から歓声が上がっているのが聞き取れる。
ミュージックシートにはチャップリンの姿が。
オリジナルは、1936年公開の映画『モダン・タイムス』で監督・脚本・製作・主演と何役もの作業をこなしたチャップリン自身が作曲した曲である。この映画は、トーキー映画が全盛になった時代に、サウンドトラックはあってもセリフを発声しない"サウンド版"を作り続けてきたチャップリンの肉声が初めて聴けた映画としても知られている(「Je Cherche Après Titine」というシャンソンを歌った)。
映画の公開から20年近くが経った1954年、チャップリンが作ったインストゥルメンタルに歌詞とタイトルをつけ、Nat King Coleが初めて歌った。同じ年に発売されたSunny Galeのカバーと共に大ヒット、人気を二分した。また、同じ年にイギリスでLita RozaとPetula Clarkが競作、曲の知名度を上げるきっかけとなった。
1952年にチャップリンが赤狩りでアメリカから国外追放されるや、アメリカ国務長官のもとには数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到するなど、東西冷戦が世界的に顕在化した時代背景のもとでの大ヒットであった。
テンポ180の超速ハイハットをバックに、改めて司会の男性によるプロフィール紹介がされている。洒落た導入に期待を膨らませずにはいられない。
本作を含め4曲のアレンジを担当したGreg Bosherについては一切判っていない。
Louis Armstrong
1928年にSeger Ellisという男性歌手が初めて歌ったもので、当初はホンキートンク・ピアノ(調子外れな音のピアノ)を伴奏にしたラグタイムのようなテンポの速い作品だった。
翌1929年にLouis Armstrongがスローにアレンジしてカバー、これが大ヒットしたことで世界的に有名になった。1930年初め頃にはジャズのスタンダード曲となっていたようで、Duke EllingtonやLester YoungやTeddy Wilsonといったジャズ・プレイヤーをはじめ、Billie Holidayなど錚々たるアーティストがカバーしている。1950年には本作をフィーチャーした同名のミュージカル映画が製作された。
この曲を有名にしたLouis Armstrongとは、天才的なトランペットの演奏で知られるジャズ・ミュージシャンのこと。独特のダミ声による歌声が魅力で、サッチモ(Satchmo)という愛称で親しまれた。代表作は「What A Wonderful World」「Hello, Dolly!」など。また、2001年にはルイジアナ州の国際空港が彼の生誕100年を記念して、モワザン・ストック・ヤーズからルイ・アームストロング・ニューオーリンズ国際空港と改名された。
メドレーの曲の切り替わりや展開部分で、唐突にテンポが切り替わるのが面白い。そしてハイスピードな「Smile」のリプライズに続いていく様子は、ショーの一場面を見ているような展開である。
いつからこのアレンジが使われているのかは判らないが、少なくともこれ以降しばらく「北国行きで」は、このアレンジで歌われることになる。
キモノドレスで歌う
日本古謡と表記される場合が多いが、実際は、幕末の江戸で子供用の箏の手ほどき用に作られた作者不明の練習曲である。明治以降、歌として一般に広まり現在の歌詞が付けられた。タイトルは単に「さくら」という場合もある。
日本を題材にしたプッチーニのオペラ「蝶々夫人」で引用されているほか、変奏曲や幻想曲など、クラシック曲の主題として使われることが多い曲でもある。
国際的な場面で日本を代表的する歌として歌われることが多いこの歌をレパートリーに取り入れていることや、レコードジャケットを見てもわかるように着物地を使った衣装を着ていることから、激戦のエンターテインメント界にあって日本人という特色を誇りを持って強調していることがわかる。
ちなみに当時のアメリカでは、着物地や古裂を使ったデザインが流行していたようだ。
曲調の相性がよいからなのだろうか、何故か「さくらさくら」につながる曲として映画『追憶』の主題歌が使われた。このメドレーは長らく彼女のレパートリーとして使われている。
映画『THE WAY WE WERE(邦題:追憶)』は、1973年10月(日本は1974年4月)に公開されたBarbra StreisandとRobert Redford主演による学生運動を元にしたラブ・ストーリーである。興行収入の上でコロンビア映画始まって以来の大ヒット作となった。
Barbra Streisandが歌った同名の主題歌シングルは、映画公開の翌11月に発売され、Billboard Hot100で1位を獲得、更に1974年の年間シングル・ランキングでも1位という超がつくほどの大ヒットとなった。Barbra Streisandにとって「Woman In Love」「Evergreen(Love Theme From "A Star Is Born")(邦題:スター誕生の愛テーマ)」と並ぶ代表作のひとつになった。
また、1974年4月に開催された第46回アカデミー賞では歌曲賞を受賞。同時に、映画『追憶』を担当したMarvin Hamlischがアカデミー賞作曲賞に選ばれた。
黒塗り姿のAl Jolson
1919年にブロードウェイで上演された『Demi-Tasse Revue』という演目のために、Irving CaesarとGeorge Gershwinによって書かれた作品である。翌1920年、アル・ジョルスンが自ら主演するミュージカル『Sinbad(シンドバッド)』に取り入れたことで人気に火がつき、その後録音したレコードは大ヒット、彼の代表作となった。同時にガーシュインの出世作でもある。
アル・ジョルスンは、顔を黒く塗って大げさな仕草で黒人を演じるミンストレル・ショーで人気を得たエンターテイナーである。世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』での歌唱が有名だが、現在のアメリカでは人種差別問題のために、彼の作品や功績について語られることはほとんどない。
また、Stephen Fosterが1851年に作曲した「Old Folks At Home(Swanee River) [邦題:故郷の人々(スワニー河)]」という奴隷時代の黒人の悲哀を描いた歌のこともあり、アメリカの黒人にとって"スワニー"というキーワードは非常にナイーブな感情を呼び起こすものになっているようだ。ちなみにジョージア州とフロリダ州をまたいで流れるスワニー川は"Suwannee River"という綴りである。
朱里エイコはこの時期、この曲を歌って黒人に険悪な様子で詰め寄られて怖い思いをしたと語っている。アメリカ建国200年という節目のこの年、古い歌がウケるというアドバイスから良かれと思って選んだ歌は、よりにもよってそういう歌だったのである。(週刊明星 1976年9月26日号/週刊大衆 1976年10月28日号より)
1910年代の後半(年不詳)、若かりし頃のWilliam Frawleyがボードビル・ショーで歌ったものが最初といわれている。彼はシチュエーション・コメディーの金字塔である、Lucille Ballを主役にした大人気テレビ・ドラマ「I Love Lucy」のアパートの管理人Fred Mertz役が有名。
この曲も「スワニー」と同様、1918年にブロードウェイ・ミュージカル『Sinbad』の中で取り上げられ、アル・ジョルスンが歌ったことで一躍有名になった作品である。
その後50年という時を経て、1967年にはThe Happeningsが、翌1968年にはLiza Minnelliがカバーしてヒットさせている。特に、The HappeningsのバージョンはBillboard Hot100で13位というヒットとなった。
また、1967年に公開されたJulie Andrews主演のミュージカル映画『Thoroughly Modern Millie(邦題:モダン・ミリー)』の中でパロディーとして使われるなど、ポピュラーのスタンダードとして定着している作品である。
1921年に開幕したアル・ジョルスン主演のブロードウェイ・ミュージカル「Bombo」のために作られた作品である。このショーからは「April Showers」などのヒット曲が生まれた。
1924年にはアル・ジョルスンが歌ったレコードが発売されヒットした。その後時をおいてスタンダードとして盛んにカバーされるようになり、1960年にRay Charlesが歌ったものや、1967年にBill Evansが演奏したインストゥルメンタルがよく知られている。
現在ではカリフォルニア州の非公式州歌的な扱いの曲となっている。公式な州歌として推す動きもあったようだが、1988年に「I Love You California」が州歌であるという声明が出された。
朱里エイコはリプライズでカリフォルニアをラスベガスと置き換えて歌っており、それがそのままアルバムのタイトルになった。企画当初は「ラスベガス・ライブ」や「エイコ・バレンタインデー・イン・ラスベガス」というタイトルだったようだ。
大ヒットした再発版のシングル
Daryl Dragon(キャプテン)とToni Tennilleがデュオを結成して初めて世に出た作品である。
1974~1975年の短い時期に3つのレーベル、4種類のシングルが発売されている。即ち、自主制作レーベルのButterscotch Castle版、それを買い上げたJoyce Record版、そしてメジャー契約して発売されたA&M Records版で、成功の過程をレーベルで見ることができるのが面白い。こうして1974年9月にメジャー・デビュー盤が発売された。
その後、ファースト・アルバムからのシングルカット「Love Will Keep Us Together(邦題:愛ある限り)」が大ヒットしたことを受けて、1975年8月にはカップリング曲を変えて再発売された。この再発盤は100万枚を超すレコードの売り上げを記録し、Billboard Hot100では4位、アダルト・コンテンポラリ部門では1位という大ヒット曲となった。
Captain & Tennilleは1971年に結成された夫婦デュオである。キャプテンとはDaryl Dragonのニックネームで、アレンジャーとしてThe Beach Boysに参加していた頃にトレードマークとして被っていたキャプテン帽からつけられた。彼はToni Tennilleをビーチ・ボーイズの活動に誘い、同行したツアーが終了した後デュオを結成した。
再発盤がヒットした1975年の年末には「Como Yo Quiero Sentirte」というタイトルでスペイン語版シングルを発売。その後1995年10月に発売されたアルバム「Twenty Years of Romance」で20年ぶりにセルフカバーしている。
Captain & Tennilleはファースト・アルバム製作の際、アップテンポな曲が必要になり、カバー曲としてNeil Sedakaのアルバム「The Tra-La Days Are Over」(1973年)に収録されていた曲を選んだ。
1975年5月、同名のファースト・アルバムからシングルカットされたこの曲は、BillboardのHot100とイージー・リスニング部門の両方で1位を獲得、1975年の年間シングルチャートも1位という大ヒットとなった。さらに、1976年2月に開かれた第18回グラミー賞では、最優秀レコード賞を受賞している。
「The Way I Want To Touch You」と同じく、「Por Amor Viviremos」というタイトルでスペイン語版を録音、1975年7月にシングルが発売された。
Neil Sedakaは、Connie Francisに提供した「Stupid Cupid(邦題:間抜けなキューピッド)」(1958年)の成功をきっかけに、1950年代末期頃からポール・アンカと並ぶトップアイドル歌手となった。代表作には、キャロル・キングを歌った「Oh! Carol」(1959年)、「Calendar Girl」(1960年)、「Breaking Up Is Hard To Do(邦題:悲しき慕情)」(1962年)、「Laughter In the Rain(邦題:雨に微笑みを)」(1974年)、Elton Johnと歌った「Bad Blood」(1975年)などがある。
途中リズムが変わる4小節でドラムとベースのリズムが一瞬崩壊してしまうがご愛嬌。2回目は慎重に演奏しているのが伝わってきて、ライブ盤ならではの面白さがある。難しいパートなのだろう、「NOW ON STAGE」で歌った時もなんとなくゴリ押ししているような怪しい部分である。
翌年1977年に発売するシングルバージョンと違い、ほぼ全て英語詞で歌われている。
アレンジを担当した鈴木弘とは、"原信夫とシャープスアンドフラッツ"や"宮間利之とニューハード"に在籍したジャズ・トロンボーン奏者のことだろうか?
1974年7月に発売されたThe Kiki Dee Bandのシングルで、Billboard Hot100では12位、UKチャートでは19位というヒットを記録した。
Kiki Deeはイギリス出身の歌手で、1976年のヒット曲「Don't Go Breaking My Heart(邦題:恋のデュエット)」が代表曲。オーバーオール姿でElton Jhonとデュエットしていたのが印象的で、アメリカ・イギリスのシングル・チャートで共に1位という空前の大ヒットとなった。他には1993年に再びElton Jhonとデュエットした「True Love」が有名。
彼女は、過去にDusty Springfieldのバックコーラスを務めていたことがあるほか、Motownと契約した初めての外国人として知られている。またキャリア初期の1965年には、サンレモ音楽祭で「Aspetta Domani(邦題:明日を待とう)」という曲を歌って入賞している。
1973年にElton John率いるRocket Recordsに移籍して再デビュー、いくつかのスマッシュ・ヒットを経て1976年に大ブレイクとなった。
少しハスキーな声や力強い歌い方、再デビューを経験しているところ、低迷した時期(1970~1971年頃)が同じなど、朱里エイコとオーバーラップする部分がある歌手である。朱里エイコはこの後、カーネギーホールのジョイント・コンサートや日本での凱旋ツアーのオープニングにこの曲を使用した。
エンディングではスタンディング・オベイションが起こっているようで、歓声の中リプライズは日本語歌詞で歌う。
このショーは大ホールでショーだけをメインで見せるというものではなく、ラウンジ・ショーでいわば客寄せのショーである。
ギャンブル場の一角ということで、音響などがメインの遊戯の邪魔にならないように設えられており、内容が良くなければすぐに席を立たれてしまうという環境だ。閉ざされた劇場空間でのショーより難易度が高い、アーティストにとっては修練の場といえるものらしい。音源収録日とはいえ、そんな場所や状況で行われるラウンジショーでスタンディング・オベイションとは、かなり凄いことなのではないだろうか。
「マイ・ウェイ」を歌ったフランク・シナトラは、さすがにこのようなラウンジで歌っていたということはないだろうが、観客の反応を近くで感じることが出来るナイトクラブやキャバレーなどの小さなステージを"最も愛すべき場所"として好んだステージ歌手であった。
→アルバム「朱里エイコ・オン・ステージ」 (Disc2/SideB/M7)