1978年の春頃告知のコンサートのちらし。
※このアルバムは、ジャケット・盤のラベル・ライナーのどこにも演奏や制作者のクレジットが記載されていない。また、作詞・作曲・編曲のクレジットは盤のラベルにのみ記載されている。
→カセットテープ版「ENDLESS」 (ワーナー・パイオニア)
朱里エイコは1977年にツアーで来日していたポール・アンカに自らを売り込み、特にアルバムに収録された「マイ・ウェイ」を賞賛された。これがきっかけとなって、シングルとなった「ジョーのダイヤモンド」「オクラホマ・モーニング」のほか計4曲をポール・アンカから贈られた。
このアルバムはその他の収録曲も全てポール・アンカの代表作や関連作になっており、"朱里エイコ、ポール・アンカを歌う"といった趣きのアルバムである。
シングル「ジョーのダイヤモンド」と同じカットのジャケット写真である。髪型とメイクがこれまでのものとガラッと変わっているが、これは1977年ラスベガスで撮影された「キリンブラック」のTVCM以降のこと。まるで別人のようなのはメイクだけのせいか、お直し(!)をしたのかどうかは判らない。
ソウル国際歌謡祭に出場した際に韓国で発売されたアルバム「Nice To Be Singing」(写真右下)も同じ写真を使っている。
ワーナー・パイオニアの1978年目録にはこのレコードについて、「JUST・SINGING」、L-10095A、1977/11/25発売と記載されている。当初はアトランティック・レーベルからの発売予定だったのか、ただの誤記載なのかは不明。サンプル盤の帯では「JUST SINGING(仮)」L-10095と印刷されており、レーベル記号の記載が省略されている。
シングルの裏ジャケットに記載されるクレジットでは編曲は竜崎孝路。シングルバージョンの曲の長さは4分13秒。
アルバムバージョンは4分25秒、編曲は馬飼野康二。ライナーには何も書かれていないが、レコード盤のラベルにはアレンジャー名や曲の長さなどが記載されている。
上のことから、新発見か……!と思いきや、シングルバージョンとアルバムバージョンはスピードの違いによってピッチが若干違うものの、まったく同じものだった。ちなみに、曲間の無音分を入れてもアルバムの方は曲の長さがあまりあてになっていなかった。
つまり、どちらかが間違って表記されているわけだが、これはさすがに判断できない。
クレジットされているアレンジャーが東海林修と竜崎孝路ばかりなので、シングルに記載されている竜崎孝路が正しいのかもしれない。
という訳で、ここでは編曲・馬飼野康二としたが、これ以降の作品のクレジットは全て竜崎孝路と勝手に統一して表記した。
1971年1月、アルバム「Tom Jones Sings SHE'S A LADY(邦題:シーズ・ア・レディー~トム・ジョーンズ・グラン・プリ)」に先行して発売されたTom Jonesのシングルで、100万枚以上を売り上げた大ヒット曲である。Billboard Hot100では1位を逃したものの、Cashbox誌やカナダのシングチャートでは1位を獲得、Tom Jonesの代表曲のひとつとなっている。
B面には1969年にPaul AnkaがFrank Sinatraに提供した「My Way」のカバーが収録されており、両面ともPaul Ankaが提供した楽曲で構成されている。また、バックのリードギターとしてLed ZeppelinのJimmy Pageが参加した。
1995年9月(日本は翌年6月)に公開された、Patrick SwayzeやWesley Snipesがドラァグ・クイーンに扮したことで話題になったロード・ムービー『To Wong Foo, Thanks For Everything! Julie Newmar (邦題:3人のエンジェル)』のサウンド・トラックに使用されたことでリバイバル。同じ年にJunior Vasquezによるリミックスを収録したシングルが発売された。
また、2013年4月発売のPaul Ankaのアルバム「Duets」にはTom Jonesとのデュエットが収録され、2人揃って変わらぬ歌声を披露している。
1957年月6月、Paul Ankaのメジャー・デビュー・シングルとしてDon Costaのプロデュースで発売されたものである。
デビュー・シングルにしてBillboardのHot100で2位、BillboardのR&Bチャートやイギリス、カナダ、オーストラリアのシングルチャートでは1位を獲得するという大ヒットをなり、これまでに900万枚以上を売り上げたと言われている。
この曲のヒットで一躍大人気アイドル歌手となり、1960年前後のポップス界でNeil SedakaやDel Shannonなどと人気を競った。
ダイアナという女性のモデルには諸説あるようで、弟のベビーシッターへの片想いを綴ったものというのが通説だったが、後年にはDiana Ayoubという高校の友人をイメージして作られたとも伝えられている。近年のインタビューでPaul Anka自身が、教会で出会った面識のない女の子に触発されて作ったとも答えているようだ。
日本ではSP盤とドーナツ盤が同時に発売されている。以降、B面にヒット曲「クレイジー・ラブ」や「君は我が運命」をカップリングにして再三に亘って発売されるほど人気があった。また、平尾昌晃やミッキー・カーチスと共に"ロカビリー三人男"として有名だった山下敬二郎が1958年4月に発売のシングル「バルコニーに坐って(Eddie Cochranの「Sittin' in the balcony」)」のB面でカバーして大ヒットさせている。
1957年12月に発売されたPaul Ankaのサード・シングルで、Billboard Hot100では7位、UKチャートでは6位というヒット曲である。デビューから軽快なポップスが2曲続いたPaul Ankaが朗々と歌うシリアスなバラードに挑戦、歌唱力の高さを見せた。翌1958年にはDalidaが「Tu m'étais destiné」というタイトルでフランス語バージョンを歌うなど、世界各国でカバーされている。
邦題が一定しないのが特徴で、「君は我が運命」「君はわが運命」「君は我がさだめ」などの表記がある。「ダイアナ」と同じく、「マイ・ホーム・タウン」などのヒット曲とのカップリングで色々なパターンのシングルが発売された
日本では"ロカビリー三人男"の中でも、特にミッキー・カーチスや平尾昌章(現・平尾昌晃)のカバーが知られている。江利チエミやペギー葉山など女性歌手も積極的にカバーした。
この朱里エイコのバージョンは、オリジナルに比べボーカルの旋律にバリエーションを加えて歌っているのが魅力である。
ところで、壮大でメロディアスで大真面目なラブ・ソング曲である一方、一定の世代にとってはコントで使われていたという刷り込みがあるため、真剣に歌われると困ってしまう曲でもある。また、チェッカーズのヒット曲「星屑のステージ」のサビの数小節が酷似していると一時期話題になった。
朱里エイコのコンサートのエンディング曲としておなじみの「My Way」を新たに録音。Paul Ankaプロデュースのアルバムでの歌唱とあっては否が応でも気合が入ったことだろう、彼女のキャリアを通して録音された歌唱の中でも集大成といった素晴らしい出来になっており、金管のように響く伸びやかな歌声が最後の輝きを放っている感がある(1978年頃から喉を悪くして思うように歌えなくなって行く)。
1968年、休暇中のPaul Ankaはフランス滞在中にTVで聴いたオリジナルの「Comme d'Habitude」を気に入って権利を手に入れていた。その後、引退を匂わせるFrank Sinatraの発言を聞かされたPaul Ankaは、オリジナルとは異なる意味の英語詞を当てこの曲を贈った。1969年3月に「My Way」としてリリースされ大ヒット、Frank Sinatraの代表曲となった。
ところで、Paul Ankaの書いた「An then, the end is near」と始まる歌詞とは対照的に、中島潤による有名な日本語訳は「今、船出が」と始まる。ただ繰り返される空虚な日常にすり減っていく感情を描いた、シャンソンらしい哲学的なオリジナルの歌詞から更にかけ離れてしまった日本語詞は、これから始まる人生への期待にウェイトを置いたもので、結婚式などの定番ソングになっていた時期がある。加山雄三や布施明の歌唱が有名で、朱里エイコもセカンド・アルバムで歌っている。
また1987年には、独特のボーカルとフラメンコギターで日本でも人気があったGipsy Kingsが「A Mi Manera」というタイトルでカバーして話題になった。
→アルバム「朱里エイコ・オン・ステージ」 (Disc2/SideB/M7)
1972年5月発売の同名のアルバムに先行して、同じ年の3月に発売されたPaul Ankaのシングル曲で、Billboard Hot100では9週間チャートインし最高65位という小ヒットとなった。
Paul Ankaは、Beatlesなどが台頭してきた1960年代中頃からはヒット曲に恵まれずレコード会社を転々としている。本作はその低迷期の最後期にあたる1972~1973年頃に在籍したBuddah Recordsから出した作品である。
その後United Artistsに移籍、1974年6月に発売された移籍第1弾シングル「(You're) Having My Baby(邦題:二人のきずな)」はOdia Coatsとのデュエットが話題になり、Billboard Hot100では久々の1位を獲得しカムバックを果たした。これは次トラックでカバーされている「Lonely Boy」のヒット以来15年ぶりのことだった。
3度目の渡米の頃からのレパートリーだろうか、朱里エイコお得意のナンバーのひとつである。オリジナルはガッチリとしたロックとなっているが、朱里エイコのバージョンはブラスを前面に出したテンポの速いアレンジになっている。
ポスターのデザインはかなりのもの。
Paul Ankaのヒット曲「Lonely Boy」の"Boy"を"Girl"に変えたものである。1960年に「Pineapple Princess」がヒットしたことで有名な、またPaul Ankaの恋人と噂されたAnnette(Annette Funicello)が「Lonely Girl」というタイトルで歌った。
オリジナルは1959年5月に発売されたシングルで、Billboard Hot100で初めて1位を獲得した作品である。
同じ年の10月(日本は翌月)に公開された映画『Girls Town(別題:The Innocent and the Damned、邦題:非情の青春)』で挿入歌として使われた。Paul Ankaはこの映画に歌手役で出演、マリリン・モンローに似た女優ということで話題になったMamie Van Dorenが務める主役に絡む重要な役どころだった。
1962年には出身地であるカナダで同名の映画が制作された。これは当時人気絶頂だったポール・アンカに密着した短編ドキュメンタリー映画である。
また、1970年代に入ってからBilly "Crash" Craddockがカントリー調でカバーしたほか、The OsmondsのDonny Osmondが変声期前の可愛らしい声でカバーしリバイバルしている。
Paul Ankaから提供された3曲目のオリジナル作品である。
Cメロに相当する部分だろうか、ストリングスとギターとピアノの絡みが爽やかな印象。CMで使われていそうな、軽快なシティ・ポップスいった感じの作品になっている。
2度目のサビからアウトロまでが何となくミュージカル『コーラス・ライン』の「I Hope I Get It」を髣髴とさせる雰囲気がある。
1976年のアルバム「Painter」や1977年のアルバム「The Music Man」など、いち早くアダルト路線にシフトしていたPaul Ankaの音楽はディスコ全盛の日本では早すぎたかもしれない。
1974年6月にUnited Artists移籍第1弾として発売されたシングルで、15年ぶりにBillboard Hot100で1位という大ヒットとなった「(You're) Having My Baby(邦題:二人のきずな)」のB面に収録された曲である。
余談だが、A面の「(You're) Having My Baby」という曲は商業的に大成功した作品であるにもかかわらず、過度にセンチメンタルな内容からしばしば批判論争がおこり、"史上最悪の曲"の投票で第1位に選ばれるという不名誉な記録を持っている。
今まで気付かなかった父親の偉大さに感謝しつつ、子供の頃に見た父の姿に思いを馳せるといった感じの曲。大人になるにつれてエディプス・コンプレックスから脱した時、或いは自分が父になった時、男なら誰もが通る道といったところだろうか。
一瞬、蕗谷虹児と杉山長谷夫による大正の流行歌「花嫁人形」を思い起こさせるイントロや、マイナー調フォークのメイン・メロディーには不思議と親近感の湧く郷愁がある。この民族音楽的なエッセンスは、自らのルーツにインスピレーションを得て創り出されたのだろうか。ちなみにPaul Ankaの両親は"レバノンの正教徒"と呼ばれるギリシャ正教系レバノン人で、カナダに移民した人たちである。
Paul Ankaから提供された4曲目のオリジナル作品である。
シンプルなピアノのイントロから始まり、キッカケ毎にドラムやストリングスと増えていく、「ジョーのダイヤモンド」のバリエーションのような曲調。タイトルだけ見ればアンサーソングと言えなくもない。
「LITTLE TOO MUCH」の項でも書いたとおり、1977年にして早くも1980年代の匂いを振りまいているポップ・バラードである。
当時のビニャ・デル・マール音楽祭の映像より
オリジナルは「Laissez Moi Le Temps」というフランス語の曲。1973年2月、チリのViña del Marで毎年開かれている南米最大の国際音楽祭に出場したRomuald(Romuald Figuier)という歌手のために書かれたものである。現地では「Dame Tiempo」と言うタイトルで歌われ、メロディアスでドラマティックな本作は拍手喝采で受け入れられたものの、優勝を逃し2位という結果に終わった。
また、彼はミュージカル映画「ロシュフォールの恋人」でGeorge Chakirisの吹き替えをしたことでも知られている。
後に2000年に開催された同音楽祭ではPeabo Brysonがこの曲を歌って優勝している。Peabo Brysonは『美女と野獣』の主題歌をCeline Dionと歌ったことでも有名なソウルやR&Bを得意とする歌手である。
カップリングは「リトル・ナイト・ミュージック」の名曲。
同じ1973年、Paul AnkaとSammy Cahnが英語詞をつけ、Don Costaがアレンジをして、「Let Me Try Again」というタイトルがつけられたこの曲は、1971年に引退し1973年にカムバックしたFrank Sinatraに贈られた。代表曲「My Way」と同じようなプロセスで日の目を見た作品といえるだろう。以降、Frank Sinatraのコンサートでは重要なレパートリーとして歌われている。
朱里エイコが歌っているのはFrank Sinatraのが歌った英語バージョンで、アルバムの最後を締めくくるのにふさわしい絶唱となっている。