レコード会社が決まっていなかった朱里エイコを、評論家でグラフィック・デザイナーの野口久光がキングレコードのディレクターに売り込む。彼女はスタジオで4曲歌ったが、2曲目を歌っている頃には既にディレクターが真剣な顔で「頂きました」と言って採用が決まっていたそうだ。
4月、シングル「恋のおとし穴/孤独の太陽」でレコードデビューするも、パンチのある新人として黛ジュンの「恋のハレルヤ」とぶつかってしまい、前評判ほどは売れなかったようだ。一方、改名・再デビューの黛ジュンは順調にスター街道を進み、翌年にはレコード大賞を受賞している。
同月29日から始まったAndy Williamsの来日公演はHenry Manciniとの競演で、朱里エイコは振袖姿でホステス役を務めている。
公演初日の2日前に母・みさをとAndy Williamsの宿泊先に挨拶に行った際、その場でテストを受け合格したということらしい。
朝日新聞1967年5月31日夕刊号より
1967年5月31日から、毎週水曜日にニッポン放送でレギュラーの深夜番組「今晩はエイコです」を4ヶ月に亘って放送。
10~11月、母・みさをが手がける赤坂ミュージカル(第7回)「恋しかるらん物語(作・演出:里吉しげみ、音楽:小林亜星)」に出演。「ディス・イズ・ザ・ショウ」という作品との2本立て公演で、堀内美紀や原田信夫とファイブ・キャラクターズと共演した。
11月、シングル「イエ・イエ/恋のアングル」が発売される。レナウンが発売する「イエ・イエ」というニット製品のCMで使われた。電通の松尾真吾によるこの作品は斬新な表現手法が話題を呼び、1960年代を代表するだけでなく、当時の広告業界にとってエポックメーキングとなった。
このおかげか、CMソングといえば天地総子か朱里エイコかという時期があったそうだ。
12月18日から4日間、武道館で開催された「さよなら'67 民音歌の大行進」に出演。
「青春の歯車」初演の舞台から九重祐三子と大木正司。
新宿のヒルトンホテルにて(1968年7月)
1968年度全国労音統一企画として上演されたミュージカル「青春の歯車(早乙女勝元作、山本薩夫演出)」で、藤ユキ(「ユキとヒデ」やアン真理子としても活動)と共にヒロイン役に抜擢されていたが、諸事情により出演できなくなっている。この役は前年の初演では九重佑三子、後に槇みちるが演じている。
1968年夏、ニューリズムとして売り出されていたブーガルー。これに対抗して売り出されたシングル「ハバナ・アンナ/クレイジー・ラヴ」から朱里エイコのレコードはLONDONレーベルに変わる。キングレコードの洋楽部門であったLONDONレーベルの女性第1号歌手となった。
1969年10月23・24日、赤坂ミュージカル第8回公演「百万馬力の淑女」(作・佐藤信、演出・星野隆英)に主役として出演。
レーベル移籍以降に発売したレコードもセールスが伸び悩んだため、再び渡米し歌の修行をする決意を固める。この渡米は、新曲のレコーディングやテレビやショーのスケジュールを押し切っての強行渡米だった。
1970年1月、2度目の渡米の時には恩師トーマス・ボールは既に故人となっていた。ユニオンに加入しオーディションを受け自ら売り込まなければならず、ホテルとのショーの契約、バンドメンバーへの給料の支払いなども自分でするようになった。
2度目の渡米時はトーマス・ボールの部下だったダン・ソーヤがマネージャーを務めた。それまでパンツルックやロング・ドレスが多かった彼女に、チャームポイントの脚を強調するように助言したのは彼である。
Torranceでのショーの広告(1970年8月)
朱里エイコと傭兵たち(Mercenaries)
無名の歌手はバンドを持っていないと売り込めないらしく、早速エクスキューズミーというバンドを編成。移動のためのマイクロバスも自分で手に入れた。
白人男性ばかりのバンドを率いての興行は相当大変だったようで、言うことを聞かないメンバーと喧嘩をしたり、酒を飲んで舞台に上がったメンバーはすぐにクビにするなど、"Strong Eiko"と呼ばれることもあったようだ。一方、芸能新聞では"Perky Pixie"(元気な妖精)と可愛らしく紹介されている。
Jerry Mercer(写真左上)をリーダーとするバンドThe Mercenariesと組んで、Eiko Shuri with Mercenariesとしても活動している。
ラスベガスではSahara Hotel(廃業)、The Fabulous Flamingo(現・Flamingo Las Vegas)、Tropicana Hotelに出演したほか、アメリカ各地のみならず、ヨーロッパ・オーストラリア・東南アジア・香港などを回っている。
ハワイのホテルのラウンジで歌う
この頃に、彼女のステージを絶賛したRingo Starrに食事に誘われたが断ってしまうというエピソードがある。晩年「第2のオノ・ヨーコになれたかもしれないのに」と当時を懐かしんでいるものの、当時の雑誌では「毛むくじゃらな白人は苦手」と方々で断言していた。
ある時、日本で実力派の尾崎紀世彦がヒットしていることを知り、日本へ帰る決意をする。
1971年3月、一時帰国し、ワーナー・パイオニアへ移籍。7月には移籍第1弾のシングル「恋のライセンス/ミスター・スマイル」を発売した。
同年10月、本格的帰国に際して、公演をしていたシカゴのホテルContinental Plaza(10数年前に母・みさをが踊っていたステージ)の計らいで母・みさをとの感動的な対面が演出される。
10月3日、ヤマハ主催の合歓(ねむ)ポピュラー・フェスティバル'71に参加。「男と女」(作詞:丘のぶこ, 作曲:森岡賢一郎)という曲を歌った。
「北国行きでが大ヒット」へ1972年1月25日、シングル「北国行きで/時の流れにのこされて」が発売される。
オリコン最高6位、ランキング登場29週、売り上げ35.9万枚はランキング上位常連の歌手から見るとぱっとしないかもしれないが、このヒットは彼女を確実にスターダムへ押し上げ、活動の場の大半をステージからテレビやラジオに変えてしまうほどの力となった。
6月28日号の「女性セブン」に亡くなったはずの父との角逐をスクープする記事が初出。
9月25日、シングル「恋の衝撃/あたたかい胸」が発売される。
2曲連続で暗い歌が続き、明るい歌が歌いたいとの訴えで実現したもの。いずみたくの"1番弟子"朱里エイコへの新曲書き下ろしは8年ぶりとなった。
同月29・30日、ヤマハ主催の日本歌謡祭'72で「いつもの道」で歌唱賞を受賞。この曲はサードアルバム「EIKO SHURI・III」で聴くことができる。
12月9日、フランキー堺の主演映画『快感旅行』が封切り。劇中、電車の食堂車内で「恋の衝撃」を所狭しとアクションしながら歌った。
朱里エイコのチャームポイントだった素晴らしい笑顔と脚という意味での「ミリオン・スマイル、ミリオン・レッグ」は、いつしか百万ドルの脚、百万ドルの保険をかけた脚と飛躍し、一人歩きしていき、歌より脚線美ばかりが注目されるようになっていく。
保険をかけた事実を断定する材料はない。当初事務所サイドも脚ばかりに注目されることに戸惑っており、本人も「10円ならかけてもいいわよ」と冗談めかしている。ただ、彼女の脚線美が多くのファンを惹きつけたのは確かなことである。
紅白歌合戦、フレアスリーブと超ミニで「北国行きで」を歌う。
12月31日、「北国行きで」で紅白歌合戦(第23回)に初出場。翌年の紅白歌合戦からはこの11月に落成したNHKホールに舞台が移ったため、旧・東京宝塚劇場での開催はこの年が最後となった。
この1年でシングル3枚、ミニアルバム2枚、アルバム2枚、ライブ盤1枚を発売している。
多忙を極めたこの年、いかに「北国行きで」のヒットの影響が大きかったかがわかる。
この年は運命の歯車が狂い始める年となった。
2月5日、西宮で乗っていたタクシーが追突されムチウチ症になる。
4月19日、横浜で再びタクシーが追突される。
どちらも過密スケジュールの中、休むことなく仕事を続けたため、ムチウチ症の後遺症に悩まされることになった。
2月16日の記者会見の様子。
戻って2月14日、郡山で労音主催の「朱里エイコ・リサイタル」の上演中に楽屋から逃走。22時間の失踪劇となった。2月15日に福島の富士ホテルで、2月16日には品川のパシフィックホテル東京で釈明会見が開かれた。会見ではかねてから噂になっていたマネージャーである渥美隆郎氏との仲ばかりを追及されることになってしまった。
一度舞台袖に引っ込むも、マネージャーに励まされて舞台に戻る。しかし次の歌では、とうとう歌を投げて楽屋に逃げ込んだということだ。恋愛のもつれ、実父の登場、ムチウチによるノイローゼなど諸説乱れ飛んだが、結局ウヤムヤのままとなった。
2月25日、シングル「見捨てられた子のように/愛のサンセット」が発売される。
3月5日号の「ヤングレディ」で失踪の原因の一つと噂された実父に関する記事が掲載される。ちなみに芸能レポーターの故・梨元勝はこの雑誌出身。
8月6日号の「ヤングレディ」では実父へのインタビュー記事、10月号の「婦人倶楽部」に同様の記事が掲載されている。
3月12日号(2月末ごろの店頭陳列か?)の「ヤングレディ」でマネージャーである渥美氏のお父上が、婚約の話をリークしてしまう。
3月10日、渥美氏との婚約発表記者会見が開かれたが、そこに朱里エイコの姿はなかった。失踪事件がなければ2月21日に「見捨てられた子のように」の新曲発表と婚約発表が同時になされる予定だった。
この後、結婚の延期や婚約撤回などの記事が週刊誌を賑わせていたが、9月20日号の「週刊平凡」にようやく来春結婚という記事が掲載される。
二転三転するこの婚約騒動は、結局渥美氏が創価学会の学会員でなく、入信を渋った?ことが問題だったかのような形で報道された。実は渥美氏の父上は熱心な学会員だったらしい。
とはいえ、日本の芸能界ではタブーとされてきたタレントとマネージャーとの結婚問題に一石を投じたのは確実である。
7月10日、シングル「ジェット最終便/渚のハイウェイ」を発売。
11月17日、映画『ヤングおー!おー! 日本のジョウシキでーす』が公開される。歌番組「ヤングおー!おー!」を絡ませた作品で、吉本興業の芸人総出の娯楽作である。
11月25日、シングル「あなたの勝ちだわ/そんなのないわ」を発売。
B面曲は岩谷時子が朱里エイコに初めて書き下ろした作品である。先行して発売されていたアルバム「SUPER SELECTION TPDAY」でアダモのシャンソンを歌った関係だろうか。
大胆なスリットの入ったジャンプスーツで「ジェット最終便」を歌う。
12月31日、「ジェット最終便」で紅白歌合戦(第24回)に2回目の出場を果たす。
1番を歌った後で曲を中断し、沖縄・名護で一部開花した桜などの花々を若手アイドルや女性歌手達が客席に出て配るという、なんともNHKらしいお粗末な演出をされてしまう。このせいで2番の出だしをトチってしまった。沖縄が返還されて間もない頃なので致し方ないところか。
出演が決まった当初は、Sylvie Vartanの「Non je ne suis plus la même(邦題:愛のかたち)」が歌われる予定と週刊誌で報じられていた。