その他の情報(インデックス)
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朱里エイコのコンサート活動についての情報は極めて少ない。キングレコード時代の活動についての情報は雑誌掲載なども少なく特に貴重である。
「北国行きで」の大ヒットでテレビやラジオでの活動が増えたものの、ラスベガスなどでステージ・シンガーとしての修行を積んできた朱里エイコの真価は生のステージでこそ発揮され堪能できるものだろう。最晩年のライブでも洋楽になると昔取った杵柄といった感じで、嬉々として歌う姿にはパワーがあった。(...続く)
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朱里エイコが活躍した時代は、今と違って歌番組や歌手が多数出演するようなバラエティーが綺羅星のように存在した時代である。しかし、著作権法上の制約があった上に放送した番組を全て保存するという観念は今ほど強くなく、またビデオテープが超高価であったために、全盛期の朱里エイコがテレビ番組で歌っている姿を見ることができる機会は少ない。新聞社などにはニュース映画として撮影されたフィルム素材の映像は多少残っているようだが、何らかのきっかけでもない限りこれらが我々の目に触れることはないだろう。(...続く)
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昭和40年代前半はレナウン「イエ・イエ」のCMソングを歌ったことで、一時期はコマソンの女王とまで言われた朱里エイコだが、画面の片隅に名前がクレジットされることもなく影の立役者的な存在に過ぎなかった。そのため現在手にとって聴くことのできる朱里エイコのCMソングはそれほど多くはない。
雑誌広告では、イメージキャラクターを長期間務めたキリンビールの広告などがある。(...続く)
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大ヒット曲「北国行きで」は現在でも多くの歌手に歌われている。そんな中から、朱里エイコの曲をカバーしたレコードやCDを発売した歌手を紹介する。(...続く)
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コーナー分けするほどでもない雑多な情報をここにまとめた。
アルバムの特典ポスターや、オムニバス作品など他のアルバムの帯に印刷されていたPR広告や、ワーナー・パイオニアの販売目録の巻末掲載のプロフィールなどを紹介する。
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夕映えと彼岸花
朱里エイコの「朱里」とは、舞踊家で振付師だった母・朱里みさをの芸名を受け継いだもの。
母(当時の芸名は橘晴美)はバレエの恩師・橘秋子(牧阿佐美の母)のもとを去り、飛び込んだ浅草の「オペラ館」で成功したことがきっかけで、浅草花月のスターとして吉本興業にスカウトされる。朱里という名前はこの時に、浅草らしい芸名をということで生まれた。
子供の頃に故郷の島根で目にした彼岸花の色彩やその妖艶さと自分のイメージを重ね、朱の里の踊り子として名付けられた。
ふと、目に浮かんだのは田舎の風景だった。毎年、晩夏になると朱色の彼岸花の咲く里……。そうだ、里子に出された日、にぎりめしをほおばりながら、目にしたのも彼岸花だった。
朱里みさを「人生はザ・オーディション」pp.113-114、白馬出版 -
力強い歌声やガナリ声混じりのテクニックがパンチのある歌唱と呼ばれる所以であるが、朱里エイコのデビュー以前でこのタイプの有名どころといえば弘田三枝子ということになるだろう。
弘田三枝子はデビュー時に「和製ブレンダ・リー」として売りだされたようで、そのBrenda Leeがまさに"Miss Dynamite"や"Little Miss Dynamite"という愛称で呼ばれていた歌手である。この愛称は1957年の彼女のヒット曲「Dynamite」に由来している。そんなところから、パンチのある歌唱と激しいアクションで活躍した小柄な朱里エイコを、アメリカの聴衆は"Little Dynamite"と賞賛した。
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「音に魅せられて」とは、Neil Sedakaの1973年のヒット曲「That's When The Music Takes Me(邦題:音に魅せられて/音の世界に魅せられて)」である。
「めぐり逢い」と「ジョーのダイヤモンド」の間の時期に「音に魅せられて」というシングルが発売されているはずだという話を熱心なファンの方から伺ったことがある。かなり断定的な様子だったが、シングル候補曲としてレコーディングされ、直前でお蔵入りになったのだろうか、そのようなレコードが発売された記録は残っていない。
ちなみに、この時期に発売されているシングル「明日への願い/愛のフィーリング」も何故かワーナー・パイオニアの目録に掲載されていない。
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脚本や詩歌の中に登場する朱里エイコという変わったパターンを紹介する。OCRの精度の向上で、ネットで検索するとこんなものまで発見できるようになった。技術万歳である(スキャニングは人力だが)。
まずは小林亜星主演のテレビドラマ「寺内貫太郎一家2(※いしだあゆみ扮する静江が登場するので1975年のシリーズ)」のエピソード「びっこの犬」に登場する。
この頃周平は姉の足を美しいと思う。(中略)由美かおるが何だ。朱里エイコが何だ。姉さんの足には「精神」があるんだぞ
「向田邦子全集 第4巻」p.52、文藝春秋※「びっこ」という言葉は足の不自由な人またはそれ自体を指す。放送や出版の際には肉体的・精神的侮蔑の言葉として使用を避けるという配慮がなされている。一方過剰な自主規制を言葉狩りと問題にする向きもある。
お次は、寺山修司の詩「綴じられない詩集のための目次」という作品。
散文を目次ページに見立てたお遊び的な作品。一見しただけでは意味不明。こういったものから面白さを見出すのはむしろ読者の務め。個人的には次の作品「クニ河内の作曲になるおかまたちの国民歌謡」のほうが面白い。
渋谷三省堂書店の法律書架の二段目右から二冊目の書物の題―――――――――――――――1
「寺山修司詩集」p.16、思潮社
朱里エイコの歌のタイトル――――――――2
今日の天気予報―――――――――――――3
…後略… -
朱里エイコのカセットを販売していたアポロン音楽工業株式会社は、文化放送の子会社だったテープ専門のフジ・サウンド、渡辺プロダクション、パイオニアが手を結び、当時渡辺プロの副社長だった渡辺美佐を社長に迎え、1967年12月発足した。
1967年頃、レコードに比べ利点が多いということで、音楽ソフトの次世代メディアとして磁気録音テープが注目されていた。一歩リードしていたのはオープンリール・テープ(7号、4トラック、19cm/秒で記録されたものが最も普及した)。オランダ・フィリップス社が開発したコンパクト・カセットと、RCAビクターが主体となって開発した8トラックがそれに続き、3規格が音楽ソフトの主流を狙ってしのぎを削っているといった状況だったようだ。
このような状況の中、独自の音源のほか、既存のレコード会社が製作した音源を使用した音楽テープがアポロン音楽工業から販売されることになった。(音楽舞踊新聞 1967年12月5日 上旬号より)
1978年9月にはワーナー・パイオニアに出資していた渡辺プロダクションが資本離脱し、サウンズ・マーケティング・システム(SMSレコード)を設立。これ以降ワーナー・パイオニアの音楽ソフトがアポロン音楽工業から販売されなくなった。
その後1986年にはゲーム音楽に進出、「ドラゴンクエスト」のサウンドトラックが有名。1990年には株式会社アポロン、1996年には株式会社バンダイ・ミュージックエンタテインメントと社名を変更。2000年には事業不振のため解散・清算された。
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ジャズを得意とするステージ歌手を目指して努力してきた彼女だが、商業的に成功し、華々しく活躍する歌手となるには、レコードの売り上げとそれに伴う知名度という道は避けて通れなかったようだ。
タイトル 最高位 登場週 売上(万枚) 北国行きで 6 29 35.9 心の痛み 46 10 3.6 恋の衝撃 20 21 13.8 見捨てられた子のように 68 13 3.7 ジェット最終便 61 11 3.5 ジョーのダイヤモンド 41 14 5.8 サムライ・ニッポン 47 13 4.9