本名、田辺栄子。血液型、AB型。
1948年(公称)3月19日、朱里みさを舞踊団が北海道を巡業中、札幌の病院で生まれる。
死亡時の年齢から逆算すると、実際は1946年生まれ。いわゆるサバを読んでいたということになる。「歌う雑誌KODAMA No.26」記載のプロフィールでは昭和21年生まれと明記されている。
父は田辺信一(旧姓・秋山、歌手・音山神一)、母は田辺静枝(舞踊家・朱里みさを)、姉(知佐子)が1人。
父・信一については栄子が5歳の時に亡くなったということにしていたようだが、実際には亡くなっていない。離婚後は田辺姓のまま各地を転々としていたようだ。
父親については伊田良平という名前で登場する記事もある。仮名にして配慮したのだろうか、詳細は一切判らない。
田辺は母・みさをの実家の姓で、田辺家は代々島根で神職を務める家柄だったそうだ。
朱里みさをは、浅草や日劇のレビューで活躍したダンサーで"スピンのみさを"の異名を持つ(MGM映画のスター、Eleanor PowellやAnn Millerのようなダンスを想像すればよいのだろうか?)。
後年は主に宝塚歌劇団で振付家やダンス講師を務めたほか、ショーの演出などにも携わる。幼い頃から巫女舞いを習うなど踊りの素地のあった人だが、7歳の時に父親が莫大な借金を残して亡くなったため、債務の人質として債権者に引き取られ、里子とはいえ奉公人のような生活を送る。その後年季を終える形で上京、バレエと出会う、といった壮絶な人生を歩んだ女性。
朱里エイコについてこの母親抜きには語れないというほど、あらゆる場面に顔を出す人だった。
母・朱里みさをは産後すぐに舞台に立たねばならず、姉妹は北海道の知人宅に預けられる。
その後上京。池袋に居を構え、"おばあちゃん"に育てられる。
おばあちゃんと言っても血のつながりはなく、戦後満州から引き揚げてきた身寄りのない女性(藤田ハナさん)を母が雇ったもの。このおばあちゃんが姉妹を母親のように面倒を見ており、母・みさをが父親代わりだった。
家族と共に(中央下)
6歳の時、朱里みさを舞踊団が神戸に招かれたのを期に転居。兵庫県神戸市立六甲小学校に入学する。
1957年、朱里みさを舞踊団がアメリカに招聘され各地で公演。その間に有名なテレビ番組「エド・サリバン・ショー」に出演、日本人としては初めてのことだった。
小学校5年の頃、母・みさをがアメリカの興行を終えて帰国。東京を拠点とするために転居、栄子は東京都豊島区立椎名町小学校に転校する。卒業後は豊島区立長崎中学校へ入学。中学は台東区にある上野学園中学校と記述する記事もある。誤情報なのか何らかの事情で転校したのかは判っていない。
実際のところは姉妹を長年ほったらかしのまま、宮城まり子の弟と同棲しており、別れたことでやっと親子が同居することになったというとても素敵なお話である。
この小学校5年の頃には歌手を志しており、ラジオののど自慢番組に頻繁に出るようになる。
中学校時代の栄子は卓球で国体に出場したり、規律委員をやるような少女だった。
歌手になることに大反対の母に反抗し数日間家出するなど、歌手志望の決心は固かったようだ。
家出中に東京・新宿で飛び込んだのど自慢大会で水原弘の「禁じられた恋のボレロ」を歌って優勝し、トロフィーを持ち帰ったなどのエピソードがある。
中学1年で池袋のジャズ喫茶のコンテストやフジテレビのオーディションを受けるなどしていた。
中学1年の頃(左端)
歌手を志望する栄子の懇願に根負けした母は、知人のいずみたくに栄子を預ける。いずみたくの他、竹村次郎やフジテレビのディレクターだった椙山浩一(すぎやまこういち)に師事した。
中学校卒業後は東京都新宿区にある目白学園高等学校(現・目白研心高等学校)に進学。
英語劇の主役をやったり、英語の弁論大会で優勝するなど、英語はもともと得意だったようだ。
ロカビリー時代の佐々木功のバンドで色々と歌っていたようで、この間にビクターからレコードが数枚発売されている。
「初めての渡米」へ渡米が決まった頃。銀座で母や姉と。
1964年、嘗て朱里みさを舞踊団をスカウト・プロモートしたトーマス・ボール(Thomas Ball)が、今度は韓国出身の3人組「Kim Brothers」の専属歌手をスカウトするために来日。オーディションが赤坂のナイトクラブ「ゴールデン月世界」で行われた。
トーマス・ボールは韓国出身の3人組「Kim Sisters」をプロデュース・マネージメントした人物で、Kim Brothersは彼女らの兄弟。
栄子はこのオーディションの審査員の中に母がいることを承知だったが、内緒で応募。母親に自分の歌を認めさせるためだったという。
一方母・みさをの自伝「裸の足」では、母自身がトーマス・ボールにオーディションを受けさせたいと申し出た、とも書かれている。
選考では「ラ・ノビア」を歌った(※後年の雑誌記事では「ウェスト・サイド・ストーリー」のナンバーを歌ったともある)。母は落ちろ落ちろと念じていたそうだが、その願いも空しく約20人の応募者の中から見事彼女が選ばれてしまう。
ゴールデン月世界は1964年にオープンしたばかりのバニーガールの接客で有名なナイトクラブ。この前後の東京・赤坂界隈にはデヴィ夫人が働いていたコパカバーナ(1958年)、ホテルニュージャパンの地下にあったニューラテンクォーター(1959年)、回転ステージのあった花馬車(1960年)、絢爛なレストランシアターのミカド(1961年)などが多数開店。オイルショック頃まで大型ナイトクラブ繚乱期だった。
2年間の契約で渡米することになり、高校を中退、1964年9月に日本を後にした。
この年は東京オリンピックが開催されたり、一般人の海外への渡航が自由になったりと、日本にとっても節目の年であった。
渡米後はボール氏の邸宅に下宿、日本人のセイコ夫人に面倒を見てもらいながら英語学校に通い、歌やダンスのレッスンに励む。
The Fifth Dimensionのアレンジャーで有名なBob Alcivarに師事し影響を受けたという記事がある。
同年の11月にラスベガスでのオーディションに合格(ユニオンに?)し、12月25日ダウンタウンのEl Cortez Hotelで初舞台を踏む。この時代はEikoまたはEiko Tanabeと名乗っていた。
オーディションに合格するも、就労ビザが下りず困っていた時に、母親の勧めで創価学会へ入信。要するに学会の口利きで就労ビザが下りた、ということだ。晩年それについて「権力って怖いと思った」と語っている。
※ボール氏以外にもソーヤ家が彼女のホストファミリーとなった。後に創価学会にのめりこみすぎたせいで追い出されている。芸能プロダクション業の傍らで空手師範としても活躍しているダン・ソーヤ(Dan Sawyer)はラスベガスでの栄子のプロデューサーで、トーマス・ボールの部下である。
ラスベガスでのデビュー直後のエイコとKim Brothers(左からYoung-Ah、Tai-Son、San-Ho)
トーマス・ボールがプロデュースした「Kim Brothers with Eiko」は評判がよく、Riviera HotelやTropicana Hotelなどの一流ステージから招待された。
無名時代の栄子は常にアメリカのヒット・チャート上位40曲を歌いこなすよう要求される。楽譜・歌詞カードに頼らず耳だけで完璧に英語歌詞をコピーしたそうだ。
渡米して2年、デビュー時期を考えたのだろうか、母が日本に帰国するよう迎えに来る。母の心配をよそに、アメリカでの下積みを大いに楽しんでいたようで、本人は帰国することに不服だったようだ。
帰国したばかりの頃に母・みさをと。
1966年9月に帰国し、11月30日には日生劇場のある日本生命日比谷ビル8階にあった国際会議場でリサイタルを開いている。客席の大半は芸能関係者などの招待客で、芸能界へのお披露目のようなものだった。海老原啓一郎とロブスターズの演奏のもと、スタンダード・ナンバーやミュージカルのヒット曲を歌い、関係者に絶賛された。
芸名が正式に決まった時期は判っていないが、帰国した頃の雑誌記事では"朱里エイコ"として紹介されている。
帰国後、デビューして間もない頃(1967年5月)