当時のショーの様子
1981年9月、東京・紀尾井町にあったホテルニューオータニのザ・クリスタルルームにピーター(池畑慎之介)と1ヶ月に亘るショーに出演。このショーに出演中のある日、2回公演の1回目に遅刻してしまう。
日蓮正宗の総本山・大石寺への参詣の帰り、うっかり反対方向の新幹線に乗ってしまい、その日の2回公演のうちの最初の公演に間に合わなかったということだ。
この頃に、契約上のトラブルのためレコード会社との契約解除があったようだ。10月には所属事務所との契約も更新されず終了した。短期間にゴタゴタが集中したせいか、髪をばっさりカットしてショートにしている。
また、実現はしなかったが、自作曲でLPを出すという意気込みを燃やしていたようだ。
1982年3月13日号の週刊宝石に、池田大作を批判する内容の記事が週刊誌に掲載される。この一件で仕事が激減、彼女にとって心の拠り所だった大石寺への登山許可書(自由に参詣できるものではなかったようだ)の交付も禁じられるという事態に。
沖縄公演で3000人の観客を前にして「南無妙法蓮華経」と唱えた彼女は、公明党から許可なくお題目を唱えてはいけない、と警告を受けたことがきっかけで学会の方針に疑問を持ち始める。このほか、山本リンダを米国での学会の広告塔としたことへの不満や、学会の芸能部長との軋轢があった。この頃から、睡眠薬と精神安定剤が手放せなくなってしまったようだ。
前述の週刊宝石には、所属していたトーマスという事務所から独立後、1982年2月に「エイコー」という秘書センターを設立したとも書かれている。
1983年6月6日、1日~14日という日程で名古屋のレストランシアター「ダンシング・ダン」に出演していたが、約30時間失踪し舞台に穴を開けた。
「急に外国に行きたくなったの」とフィリピンへ心霊手術を受けるために成田空港へ向かった。翌日彼女を保護したのは元夫・渥美氏、再起を期して前年の5月から再びマネージャーとなっていた。
この時朱里エイコは「もう私の歌手生命は終わりかしら」とつぶやいたそうだ。また、渥美氏は彼女の引退を明言している。
1984年3月、東京・赤坂にあったレストラン・シアターのコルドンブルーで1ヶ月のワンマンショーを開催。公演は好評だったものの、初日から1週間ほどが経ったある日、チケットは完売だったにもかかわらず彼女は会場に現れなかった。
常用していた精神安定剤と、誰かに差し入れられたのであろうドリンク剤の飲み合わせでオーバードーズ。自宅でパニック状態になって悶えているところを発見された。この事件で朱里エイコの歌手としての信用は完全に失われてしまうことになった。
1987年7月25日、6年ぶりのシングルとなる「すべての愛をあなたに…/グレイテスト・ラブ・オブ・オール」がポリドールから発売された。
この頃は、元夫・渥美氏が社長を務めるワールド・マネージメントに所属。月に1回、六本木にあったジャズのライブハウス「バレンタイン」に出演していたようだ。
以降、腎臓や肝臓を患い長期入院するなど、芸能界の一線から完全に退くこととなった。この辛い時期を支えたのは、元夫・渥美氏だったようだ。
1992年10月21日、最後のシングルとなる「お手をどうぞ/いつの日も愛のために」がキングレコードより発売された。2曲とも木崎たかしとのデュエットである。
1992年の年末には、芸能生活25周年を記念してプラターズ&シュープリームスというバンドとジョイントコンサートを開いている。その後は、小規模ながら地道にライブ活動を続け、テレビにもたまに出演していた。
1999年3月9日、母・朱里みさをが心不全のため、東京都足立区の病院で亡くなる。
2001年、朱理エイ子に改名(所属事務所のウェブサイトより)。その後に開いたライブの案内等では「朱里エイコ」のままだった。この頃は、エルフィン・スケジュールという事務所に所属していた。
2004年7月31日、東京都足立区竹の塚の自宅で亡くなっているところを同居の男性に発見される。虚血性心不全であった。
8月4日、近親者に引き取られることなく、東京・竹の塚の火葬場に安置されていた彼女の遺体は、数名の関係者に見守られながら荼毘に付された。その後、脱会したはずの創価学会・富士桜自然墓地公園に納骨されたそうだ。 有志により、遺骨の一部をラスベガスに散骨する計画があったようだが、どうなったのかはわかっていない。
赤いパンタロン姿で歌う。(平凡パンチ 1977年6月27日号より)
赤坂のクラブで歌う。(サンデー毎日 1972年7月2日号より)
ラスベガスで歌う。(週刊文春 1976年3月4日号より)