B2サイズの販促ポスター
西武園で8月2日に行われた新曲キャンペーンで撮影されたもの。(週刊平凡 1974年10月24日号/週刊明星 1974年8月25日号より)
「北国行きで」以降大きなヒットがなかった彼女が、3度目の長期渡米に際してもう1つ実績を残したいと考えていた頃のシングルである。
関西方面からじわじわと売れ出したようで、このヒットが渡米への踏ん切りをつけるキッカケのひとつとなった。(週刊平凡 1974年10月24日号より)
なかにし礼・筒美京平という売れっ子コンビによる前作「二時から四時の昼下り」の売れ行きがいまいち地味だったため、これでダメなら次は都倉だ!といったところだろうか。ここらでもう1つヒット曲を、というレコード会社や事務所の気合が見られる。
シングル発売から遅れること4ヵ月後にリリースされたアルバム「JUMPING FLASH」は、これまでのベスト+新作の2枚組という豪華盤。このシングルをフィーチャーしたもので、本作のジャケット写真と同じものが使用された。
椎名林檎のアルバム
ダーク・ダックスのシングル
ヒットメーカーの都倉俊一が朱里エイコに提供した数少ない曲のひとつである。パンチの効いた内容の歌詞に、広い音域の難曲、これに朱里エイコのパンチの効いた歌唱が加わってバタ臭いがとてもノリの良い曲になっている。
朱里エイコの楽曲の中でも人気が高い曲で、「北国行きで」「ジェット最終便」と並んで大抵のカラオケに入っている。
2002年に椎名林檎がアルバム「唄ひ手冥利 其ノ壱」でカバーして話題になった。また、2012年にはピンク・レディーのケイちゃんこと増田惠子が歌手生活30周年記念のアルバムでカバーしている。
"白い小鳩"といえば、1929年にAnselmo AietaとFrancisco García Jiménezによって作られたアルゼンチンのワルツ「Palomita Blanca (邦題:白い小鳩)」が有名。バンドネオンによるタンゴの名曲としても知られている。
また、NHKの音楽番組「あなたのメロディー」で優秀曲として勝ち残った同名の曲は、ダーク・ダックスが歌ってレコードとなった(作詞:木田多鶴子/作詞・作曲:横森正/1972年)。
これらは朱里エイコの歌とはまったく関係はないが、念のため。
作曲の都倉俊一は、阿久悠とコンビを組んだ山本リンダやピンク・レディーのプロデュースで有名。他にも山口百恵の初期の楽曲、「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」(ペドロ&カプリシャス)、「あずさ2号」(狩人)などが有名。大信田礼子との結婚・離婚も話題になった。
R&B的な歌謡曲で、どことなく和田アキ子が得意としそうな分野の作品に思える。
当分はこの路線に決めた!ということなのだろうか、このシングルの発売から4ヵ月後となる11月に発売されたアルバム「JUMPING FLASH」に収録されたオリジナル曲はどれもこういった雰囲気の曲になっている。
1974年の歌謡界は、レコード大賞の受賞曲が森進一の「襟裳岬」だったのをはじめ、年間売り上げ1位が殿さまキングスの「なみだの操」と、演歌よりの大人の歌謡曲に人気が集中した特殊な風潮の年だった。この影響がアルバムの収録曲に顕れているといえるだろう。
また、前年1973年までのアイドル歌謡やフォーク・ソングから軒並み勢力図が塗り替えられているのが面白いところである。
更に言うと、うって変わって翌年以降はアイドルの復権など、音楽のトレンドでどんどん若年化が進んでいる。つまり、1974年から1975年にかけての音楽界は歌謡曲にとっての分水嶺的な時期だったと言える。
あくまでも結果論的であるが、大人受けという意味では、持ち味とは随分かけ離れているが、この時期こそ日本での音楽活動に注力するべきだったのかもしれない。実際、1975年のレコード大賞には実力派の布施明が歌った「シクラメンのかほり」が選ばれている。
作詞を担当したさいとう大三は、「傷だらけのローラ」(西城秀樹)や「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ)の作詞がよく知られている。