朱里エイコは早すぎたと言われた。
70年代に最も活躍したポピュラー歌手である朱里エイコは、1972年に「北国行きで」のヒットで脚光を浴び、歌謡界のスターとして躍り出た。その彼女について、アメリカのステージで培われた本来の持ち味は、日本人の耳が肥えてきた時にこそ聴衆に受け入れられるだろう……というような賛辞が多く見られた。しかし、1980年前後のいわゆる実力派歌手が歌番組を席巻したほんの短い期間を除いて、結局歌謡界の主流にそんな時代は来なかった。
上手い歌手、個性的な歌手、国民的アイドル、その後多くの歌手が芸能界で活躍し、アメリカのポップス業界に挑戦していった。彼女には坂本九やピンク・レディーのようにビルボードに名を残すようなヒット曲こそなかった。だが、紅白歌合戦が今よりも歌手にとって意味のある時代に2度の出場を果たし、かつアメリカ側から出演を請われ大舞台で歌い絶賛を受け、そして得意の英語でネイティブ達と流暢にコミュニケーションをする、そういったステージ歌手は今も現れていない。小柄な体に似つかわしくないパンチのある歌声、ダイナミックなアクション、ステージを観たアメリカ人は彼女を"リトル・ダイナマイト"と評した。
「歌っていると楽しくて時間を忘れる」と彼女は言う。歌で皆をハッピーにしたい、サービス精神旺盛な彼女にとってこれが基本的なスタンスである。しかし、この自他共に認める"愛すべき歌バカ"はずっと亜流だった。ステージ歌手としてエンターテイナーの頂点を目指していても、レコードが売れなければ活動の幅が広がらない。実力本位で勝負ができない日本の芸能界でのジレンマと戦いながら、やがて表舞台から消え、看取られることなくひっそりと亡くなった。
歌は永遠である。彼女の残した歌声はこれからも聴く人を感動させ続けていくだろう。このウェブサイトがきっかけになればこれ以上の喜びはない。
朱里エイコの声を思い出してほしい。誰かがその声を覚えていてくれたら、それで満足な人だった。
能瀬理子「歌手『朱里エイコ』の超壮絶人生」、「新潮45」2004年12月号