カセット版にはこんなカットも(下)。
前月に発売のシングル「ジェット最終便」をフィーチャーしたおなじみのアルバム構成。ジャケット写真がシングルと同じものだが、シングルジャケットが少し悲しそうな表情だったのに対してこちらはやや愛想の良いカット。
シングルB面の「渚のハイウェイ」は割愛され、代わりに大ヒット曲「北国行きで」を収録している。サードアルバムA面はオリジナル曲ばかりだったが、今回は欧陽菲非・和田アキ子・奥村チヨなど邦楽のカバーを歌う。特に「あの鐘を鳴らすのはあなた」はサラッと歌ってはいるものの、本家を越えるかもしれないほどの出色の出来。
洋楽カバーは今となっては耳馴染みのヒット曲ばかりながらポップス・R&B・ハードロックから映画音楽までバラエティ豊かで、当時としては新鮮で斬新なセレクションだったに違いない。水を得た魚のような朱里エイコの様々な歌唱を楽しめる。
昔愛した人に声をかけようとしたら、傍らには美しい女性がいたという、パーティーのざわめきと女の心に残る空虚感のコントラストが印象的な作品。
間奏の雰囲気が、宝塚の代表的作曲家だった寺田瀧雄の全盛期を髣髴とさせる劇画的なメロディーとなっている。とても判りにくいだろうが、ご存知の方にはピンと来るのではないだろうか。
朱里エイコの歌には、何かしら後ろ髪の引かれる心情とパーティーを絡めた、女心を歌ったものが本作以外にもいくつか存在する。ライブ盤「朱里エイコ・オン・ステージ」に収録された「あかりを消して」や、松任谷由実が作詞したシングル「めぐり逢い」がそれに当たる。もちろん、前作となるアルバム「パーティー」も忘れられない。
ちなみに、この作品は唯一のオリジナル・アルバム曲で、山上路夫の作詞に川口真の作曲(アレンジではなく)という割と珍しい組み合わせによる作品である。このコンビによる作品で前後の時期の有名曲といえば、1972年に第1回東京音楽祭で3位入賞という結果を残したトワ・エ・モワの「明日への出発」がある。
1973年4月に発売された欧陽菲菲のシングル曲で、同年末の第24回紅白歌合戦にはこの曲で2度目の出場を果たした。また、台湾では「愛我在今宵」というタイトルで知られている。
ゴスペル的なソウル・バラードかつ典型的な三連バラードで、欧陽菲菲のシングル曲としては初めてのメジャー調の曲である。リズムの運ばれ方が、立ち止まりつつも前へ向かって歩いていくという雰囲気を作り出しているのが特徴になっている。
この作品は同じく橋本淳・筒美京平コンビによる、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのR&Bバラード「涙の糸」(1969年4月)が原型となっている。これは、1968年後半GSブームが急速に失速する中、脱GSを狙って作られた一連の作品群のひとつである。
どちらの作品にしてもあまり気持ちのいい男女関係でないのは確かだが、「涙の糸」から「恋の十字路」の間には、"着せ替え人形のような女"から"弱いながらも自分で道を選べる女"という、当時の女性の地位向上に関わる急激な社会情勢を反映した女性像の確実な変化が見られる。
1972年3月に発売された和田アキ子のシングル曲で、名実ともに和田アキ子の代表曲と言える作品である。
同年末の第14回日本レコード大賞では最優秀歌唱賞を受賞。その一方で、ベトナム戦争の反戦歌の疑いが強いということで、第23回紅白歌合戦に出場した際には9月に出たばかりの「孤独」が歌われた。
紅白初披露となったのはそれから20年近くも経った1991年(第42回)のこと。これ以降、1994年(第45回)、1999年(第50回)、2004年(第55回)、2007年(第58回)、2011年(第62回)と計6回も歌われている。
1991年4月、シングル「よくやるね」のカップリングとして新録音版がリリースされた。また、2006年4月にはリミックスを含む各バージョンの「あの鐘を鳴らすのはあなた」を一同に集めた「あの鐘を鳴らすのはあなた(たち)」というマキシ・シングルが発売されている。
阿久悠は「時代と孤独」をテーマにしてこの曲を書いたと語っており、歌詞中の「砂漠」とは東京を指し、「あなた」とは和田アキ子が出会ったすべての人のことである、としている。
もしこの作品がNHKが言うところの反戦歌であるならば、あの鐘とはゲイリー・クーパーとイングリット・バーグマンの映画で有名なヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』の平和の鐘がモチーフで、「あなた」は我々個人とすることができるかもしれない。
1973年4月に発売された奥村チヨのシングル。独特のチヨ節が炸裂とでもいったらいいのだろうか、過剰ともいえるほどセクシーな一方、突き放したような媚びない歌いっぷりが魅力である。
朱里エイコ版では、ハープシコードの代わりにオーボエを使ったイントロにスキャット、バックのストリングスの太さや泣きのエレキギター、コーダの変拍子などオリジナルより作りこまれた部分が多いのが特徴である。オリジナルに比べて、朱里エイコの歌唱があっさりしているので丁度バランスが取れているといった感じだろうか。
ひき潮のようにあっという間に消えてしまった恋の炎。最後に1度だけ抱いて欲しい……なんてのは願望であり、反語的であるからこそ引き立つ"名残り"の表現であるが、実際にヤっていたらただの獣である。
情景に感情を託しやすいのか、「ひき潮」というタイトルには同名異曲が多く存在する。1953年に大ヒットしたRobert Maxwellのインストゥルメンタル「Ebb Tided(邦題:ひき潮)」に始まり、日本では矢沢栄吉、さだまさし、サザン・オールスターズなどの作品が知られている。奥村チヨの夫君である浜圭介の作品にも同名の曲がある。
映画『Ultimo tango a Parigi(邦題:ラストタンゴ・イン・パリ)』のテーマ曲をMarlena Shawがヴォーカライズしたもの。目眩めくようなロマン(エロ)ティシズムが特徴になっている。
朱里エイコバージョンはよりアップテンポにアレンジされており、冒頭のたった1小節、オリジナルに比べ整理されて聴きやすいドラムのイントロが極めて印象的。
作曲のGato Barbieriは、アルゼンチン出身のサックス奏者でジャズとラテン音楽のフュージョンを目指した作家。この映画の音楽を担当したことで一躍有名になった。
『ラストタンゴ・イン・パリ』は、1972年12月(日本は1973年6月)に公開されたイタリア映画(本国ではすぐに上映禁止になった)。後に『The Last Emperor』で世界的成功をおさめることになるベルナルド・ベルトルッチが監督を務めた。
大ヒット映画『The Godfather』でアカデミー主演男優賞を受賞(辞退)したマーロン・ブランドと、フランスの新人女優マリア・シュナイダーを主役に"ある愛のかたち"を描いたもので、当時としてはあまりにも生々しく過激な性描写が問題になり、ポルノか芸術かという論争にまで発展した映画である。とはいえ、翌年のアカデミー賞では監督賞と主演男優賞にノミネートされている。
この映画のおかげで免疫がついたのかどうかは判らないが、翌1974年には同様の映画『エマニエル夫人』が日本で女性を中心に大ヒットしている。
The Osmondsが1972年に発売した同名のアルバム「Crazy Horses」に収録されたもの。シングルは1972年10月の発売で、UKチャートでは2位、ビルボードHot100では14位というヒット曲になった。
オリジナルの重厚なサウンドに対し、朱里エイコのバージョンは軽めにアレンジされている。
自動車を"Crazy Horse"と見立てて、排気ガスなどによる環境汚染を揶揄した作品。シンセサイザーのポルタメント機能を駆使した馬のいななきが面白い。
メイン・ボーカルには普段はドラムを担当しているJay Osmondを起用。主にメイン・ボーカルを務めていたベースのMerrill Osmondはサブに回っており、これまでのポップス路線からの転向に評価が分かれた。
オズモンズは、兄弟(妹)で編成されたコーラス・グループで、歌って踊って演奏するというパフォーマンスが人気だった。1971年にOsmond BrothersからThe Osmondsに改名、この年に「One Bad Apple」が大ヒットし一躍人気グループとなった。
同時期に活躍したJackson 5の白人版としてよく比較され、ジャクソン5がR&Bなのに対して、オズモンズはハード・ロックという位置づけだったようだ。
また、叔父が有名歌手のAndy Williamsで、テレビ番組「Andy Williams Show」に長い間レギュラーで出演していたことでも知られている。
日本では末っ子のジミー坊やこと、Jimmy Osmondが出演したカルピスのCMが有名。
オリジナルは、Lori Liebermanという女性シンガーが書いた「Killing Me Softly With His Blues」という詩を元にして、Norman GimbelとCharles Foxが楽曲として再構築したものである。
1973年にはRoberta Flackがカバーして世界的大ヒット曲になった。日本ではネスカフェのCMで長い間使われていたため知名度が高い。
現在まで沢山のアーティストにカバーされ、ポップスのスタンダードとなっている。カバー歌手が男性の場合、タイトルが「Killing Me Softly With Her Song」となる場合もある。
1971年頃、Lori Liebermanは、まだ無名だったDon McLean(直後に「American Pie」が大ヒットした)が歌っていた「Empty Chairs」という曲を聴き、詩のインスピレーションを得たと語っている。
翌1972年に発売したアルバム「Lori Lieberman」の1曲目に収録されたが、このフォーク調のオリジナルはあまりヒットしなかった。
折りしも、飛行機の機内BGMのプログラムのひとつにこの曲がラインナップされていたところ、これを偶然聴いたRoberta Flackがとても気に入り自身でカバーすることになった。この飛行機はジャマイカへ向かっていたということだが、到着後すぐにBob Marley(レゲエの神様)のスタジオでリハーサルを行ったというエピソードがある。
1972年に大ヒット曲「The First Time Ever I Saw Your Face(邦題:愛は面影の中に)」でグラミー賞の最優秀レコード賞を受賞していたRoberta Flackだが、翌1973年にはこの曲でグラミー賞の最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀女性ボーカル賞の三冠に輝いた。 女性シンガーでグラミー賞最優秀レコード賞を2年連続した歌手は今のところ彼女の他にいない。
テレビ番組『セサミストリート』の挿入歌として使用されていた楽曲で、番組内で初めて歌ったのは、1969年の放送開始からボブという人間役で出演しているBob McGrath(ボブ・マグラス)である。
ボブ・マグラスは、1960年代に日本で活動していたことがある歌手。NHKで1963年(アメリカは1961年開始)から放送された音楽番組「ミッチと歌おう」では、ミッチ・ミラー合唱団のテナー・ソリストとして大人気だったようだ。
1973年にはカーペンターズがカバー、同年5月発売のアルバム「Now & Then」の1曲目に収録した。シングルも発売され、ビルボードHot100では3位(イージー・リスニング部門では1位)という大ヒットとなった。このアルバムからは、もう一つの大ヒット曲「Yesterday Once More」が誕生している。
カーペンターズのカバーがヒットした1973年には、NHK「みんなのうた」でも放送され、今陽子と杉並児童合唱団が歌った。また、塩野義製薬の企業イメージCMで長い間使用されたのも記憶に新しいところである。
1972年11月に発売されたCarly Simonのアルバム「No Secrets」に収録されたもの。シングルはビルボードのポップス部門とアダルト・コンテンポラリ部門で1位、UKチャートでは3位という大ヒットになり、その年のグラミー賞では最優秀レコード賞、最優秀女性ボーカル賞にノミネートされた。
同じ月にJames Taylorと結婚しているほか、バック・コーラスにMick JaggerやPaul McCartneyという豪華ゲストが参加したということでも話題になった。(ノーブラがよく判るジャケット写真も一部で話題になったようだ)
――You're so vain (自惚れ屋のアンタのことだから)
――You probably think this song is about you (自分のことだと思ってるんでしょ)
これらの歌詞から、自分を捨てた3人の男に対して、恨み節をこめた歌で意趣返しをしているのではないかと憶測を呼んだ。これは冒頭にこっそり"Sun of a gun(意訳:あの野郎!)"と呟いているからであるが、本人は後に特定の人間に対するものではないと否定しているようだ。その他にも謎掛けの多いミステリアスな歌詞が人を惹きつけた。
Carly Simonは1970年代を代表する女性シンガー・ソングライターのひとり。本作のほか、映画『007 私を愛したスパイ』の主題歌「Nobody Does It Better」やTBSのドラマ「HOTEL」で白鳥英美子や島田歌穂がカバーした「Let The River Run」が有名である。
1968年11月に発売されたDusty Springfieldのシングル曲で、元々はAretha Franklinにオファーされたもの。翌1969年3月発売のアルバム「Dusty in Memphis」に先立って発売された。日本では省略したタイトル「プリーチャー・マン」として知られている。
それまでの人気に陰りが見えてきた頃、拠点をメンフィスに移し心機一転、黒人アーティストばかりのアトランティック・レコードと契約して製作されたもので、アルバム「Dusty in Memphis」はブルー・アイド・ソウルの傑作として高く評価されている。
シングル・アルバム共に全米トップ10入りを果たし、1970年のグラミー賞ではコンテンポラリ・女性ボーカル賞にノミネートされたものの、これ以降は1987年にPet Shop Boysとのコラボレーション曲「What Have I Done to Deserve This?(邦題:とどかぬ想い)」が大ヒットするまで、20年近い低迷期を迎えている。
また、1994年に公開されたタランティーノの映画『パルプ・フィクション』の中で使用されたことでも話題になった。
Dusty Springfieldは、1963年に「I Only Want To Be With You(邦題:二人だけのデート)」でソロ・デビュー。以降数々の大ヒット曲に恵まれ、"スウィンギング60's"と呼ばれるポップ・カルチャーが席巻した1960年代の一時期、大きなつけまつげにパンダのようなアイメイク、堆く盛ったビーハイヴ・ヘアにイブニング・ドレスという出で立ちで、ファッションリーダーとしての人気を確立した。
1999年に亡くなった後、2006年には彼女の半生を描いたジュークボックス・ミュージカル「Dusty - The Original Pop Diva」がオーストラリアで上演された。
スモーキー・ボイスで終始淡々と歌われるオリジナルに対し、朱里エイコ版の歌唱は力強く、コーラスもやけに力が入っているのが特徴。Nancy WilsonやTina Turnerのカバーのノリに近い。
聖職者の息子に口説かれるという額面どおりの内容を斜から見てみると、"Son Of A Bitch"という侮蔑のフレーズが見え隠れしないでもない。深読みのしすぎだろうか。